トルコ映画:理想で腹を満たせることはできるのか?-『黄色い封筒』ベルリン国際映画祭金熊賞受賞
2026年03月29日付 Milliyet 紙

ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したイルケル・チャタク氏の手がけた『黄色い封筒』は理想と障壁について大変心を動かされる結婚ドラマだ。
映画のすぐ冒頭でエズギは、プレミア公演から戻ってきた父親に質問をする。「演劇で世界を救えると思っているの?」と。父親のアジズの答えは明確だ。「もちろん!」。今年のベルリン国際映画祭の最優秀賞である金熊賞を獲得した『黄色い封筒』は、芸術家一家の理想、そして真実を提示しる、結婚と全ての世紀、全ての国で世界中の苦悩の元となっている独裁化が、個人そして自由によって芸術家たちに与える影響を物語ながら、エズギのこの問いかけを観客に投げかけている。
エズギの母親であるデリャは、尊敬を集める演劇人だ。父親のアズィズ氏は監督であり学者でもある。プレミア公演をおこなった演劇がプログラムから除外されてしまう。そののちにデリャが劇場の、さらにアズィズも学校の仕事を辞めさせられる。暮らす街を変えながらアズィズの母親のもとに引っ越す。経済的な問題のために、エズギの学業も問題のある状況となってしまう。そして次第に、それぞれの関係は傷つき始める。
イルケル・チャタク氏は、女性の主人公を描きながらシステムの問題に肉薄しようとするのが好きだ。分裂した状況に置かれた主人公たちは、倫理的な観点から大きな試練を受けることになる。『職員室」のカーラ、『献身』の中のアスルのように・・・
チャタク氏は、この作風を『黄色の封筒』でも継続している。倫理のぶつかり合いは、短編映画の『献身』におけるようにこの夫婦の上でも組み込まれている。
■自身の道を描くこと
映画の冒頭でデリャを力強く、頑固なキャラクターだと認識する。感情を言葉に出し、理由を追及する。アズィズは学生たちに芸術が人生に栄養を与えると強調するが、仕事を辞めさせられると、デリャにしてみるとさらに感情的に落ち込んでしまって見える。しかし、様々な不安が二人ともに押し寄せては流れる。アズィズの振る舞いもより受け入れられていく。デリャははっきりとそして真っすぐな形で自信を表現しながら、境界を引くことができる。危機的な状況で二人が与えた反応は、とりわけ問題となっている少女のエズギとその教育の状況となれば、また違うものとなる。『黄色の封筒』は、個人的そして夫婦の間にあるダイナミックな様相にフォーカスをしている一方、芸術と理想がお腹を満たしてくれるかどうかという要素も議論している。システムの歯車の間で押しつぶされるもしくは自身の道を描きだすことの間での選択がディラーラとアズィズを待ち受ける。アズィズが新しいゲームで見つけ出した「論理的な」解決策は、監督が「全ての事態にも関わらず、一つの道がある」という希望が提示しているように。オープンエンドの結末においても明るいが重たい感覚が残る。
イルケル・チャタク、アイダ・メリイェム・チャタクとエニス・キョステペの台本の主要な 問題は、デリャの変化、より正確に言えば変身できずに変わる点だ。映画の大部分において、 アズィズが損ったり、あきらめてしまいそうに感じられる。デリャの動きは、サプライズとして私たちの前に現れる。しかしながら、デリャが崩壊する瞬間は見受けられない。車の中で起きる口論の場面もたとえば転換点となりえるが、この場面はかなり後にくる。チャタク氏は、この映画で勇敢さを備えた男性キャラクターの傍で用いているように思われる。アズィズのキャラクターは、デリャに比べより現実的で説得力のある人物なのだ。
チャタクは、芸術家夫妻が危機と戦う姿を、二人のサイドキャラクターを用い描こうとしたようである。アズィズの母親は デリャの兄は保守伝統の側を代表している。しかしながらこの二人のキャラクターもデリャとアズィズのように流れに任せるようなキャラクターではない。自分の言動に責任を持ち、主張をする役割で、すこしシンボリックな形で立ち現れる。
■ベルリン映画祭成功の軌跡
トルコは、1964年に『水のない夏』(メティン・エルクサン監督)と46年後に『蜂蜜』(セミフ・カプランオール監督)が金熊賞を獲得した。ドイツで暮らすトルコ出身の監督たちも映画で多くの成功を収めている。2004年にファーティフ・アクン監督の『愛より強く』が金熊賞を獲得した。アクン氏の後を継いだイルケル・チャタク氏も彼から22年後に金熊賞を獲得した。『職員室』のように『黄色い封筒』も来年ドイツのオスカー賞候補となる可能性が高い。
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翻訳者:堀谷加佳留
記事ID:62446