事件は(19日)午後3時頃、新聞社のあるオスマンベイのハラスカルガーズィ通りで起こった。同社の出口で、身元の判明していない単数あるいは複数の犯人がディンクの背後から接近し発砲した。ディンクが頭と首に命中した3発の銃弾により事件現場で亡くなったことが判明した。目撃者は、ディンクに発砲した犯人は脇の通りに逃げて行ったと証言した。アゴス紙の論説委員、セルキス・セロプヤンは、ディンクが社の出口に呼ばれ、そこで頭を3発拳銃で撃たれたと伝えられたことを明らかにした。
警察は、襲撃犯の身柄を捕えるため、付近一帯の地下鉄、バスや汽船乗り場で警戒に当たった。割り出された容姿に従って、タクシム広場で犯人の疑いのある2人の人物を確認し、逮捕した。容疑者は、身元などを詳しく調べるため、テロ対策支局に身柄を送られた。
遺体が事件現場から救急車で法医学協会に運ばれる際、現場に集まった一団がディンクを拍手で見送り、「民衆の団結万歳」「暗殺は国の責任だ」「フラントは死なない」などとスローガンを叫んだ。
■モンタージュ写真も準備
イスタンブル共和国検察局は、ディンク殺人事件に関する捜査を開始させた。捜査の一環で、事件の目撃者の証言に基づいて得られた犯人の容姿に従ってモンタージュ写真が用意されたことが明らかにされた。
オランダを訪問中のイスタンブル警察署長、ジェラーレッティン・ジェッラーフと同行の代表団は、ディンク殺害を受けて日程を途中で切り上げ今晩イスタンブルに戻ることが伝えられた。
他方で警察のヴァタン通りにある庁舎に召集された警戒中の署員は、任務のためタクシムやシシリの警戒地点に送られた。
■世界で速報
国際的な通信社やニュースチャンネルがこのニュースを速報で報じた。CNNインターナショナルは、ディンクがオスマン朝時代の“アルメニア人虐殺”に反対する発言をしていたことを明らかにしつつ、「自身のことを裏切り者と見なす民族主義者から脅迫を受けていた」と解説、ディンクが「トルコ国家を侮辱した」罪によりさまざまな裁判で訴えられていたと報じた。
■孤児院で育つ
2人の子どもの父であるディンクは、1954年9月15日にマラティアで生まれた。両親は1961年にマラティアからイスタンブルに移住した後離婚した。フラントと2人の兄弟は両親の離婚後、ゲディクパシャにあるアルメニア人孤児院に預けられた。高校を卒業後、イスタンブル大学理学部で動物学を専攻した。しばらく後に孤児院で一緒だったラケル夫人と結婚した。
兄弟とともに始めた出版、文具の仕事を続けるかたわら、ラケル夫人とともに自分たち同様アナトリアからやって来た孤児や貧しい子どもを育てるトゥズラ・アルメニア子どもキャンプの運営を始めた。いくつかのアルメニア人向け新聞に書評を載せることで執筆生活をスタートさせたディンクは、マスコミの誤った報道の間違いを指摘することでその名が知られるようになった。(アルメニア正教の)総主教に「アルメニア人社会はとても閉鎖的だ。自分たちのことをよく説明すれば誤解が解ける」と話し、この目的に従ってトルコ語の新聞を出すことを提案した。1996年4月5日に創刊号が発行されたアゴス新聞の創設者となり、総発行人、主筆を務めた。アルメニア人の祖地離散に対する1915年の事件を「大虐殺」という言葉を用いないより柔軟な反対運動の呼び掛けを行ったディンクは、2005年10月に「トルコ人であることを侮辱した」という理由で6カ月の懲役刑を受けた。
※注:ディンクについてはArmeniapedia(英語) http://www.armeniapedia.org/index.php?title=Hrant_Dink に詳しい。
URL: http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=210536
(翻訳者:穐山 昌弘)
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