フラント・ディンクが殺害される前日に『ラディカル2』(別冊:訳者)に送付した論説である。そこでは、彼がなぜ、またどのように今回の事件の標的となっていったのかについて、そして彼の心境が語られていた。
***書簡全文***
(「■題名」は『ラディカル』編集段階での表題。原文は一続きと考えられる;訳者)
まず最初にひとつ――私は犯してもいない「トルコを侮辱した」罪で懲役6ヶ月の判決を受けた。今となっては、残された最後の手段として、欧州人権裁判所に赴くところだ。1月17日迄に私の弁護団には訴状を形にしてもらう予定で、私には、訴状に添付するための事件の経緯を説明する論説を提出するように、と求められた。
私は、裁判が始まればファイルに保管されることになる論説を世に出そうと考えた。なぜなら、欧州人権裁判所の判決と同じくらい、いや、それ以上に、トルコ社会の良心に拠った判決が重要なのだから。数週間の連載になる予定のこの論説に含まれる情報や心の葛藤のいくつかは、きっと、欧州人権裁判所に訴える必要に迫られることがなければ、永遠に私の心中に留めておけたことだ。
けれども、ご承知の通り、問題はこういう段階になってしまった訳で、一部始終を洗いざらい明らかにするのが、きっと最善の策なのだ・・・
私に限ったことでも、アルメニア系に限ったことでもなかった・・・・。世論全体が気に掛け、納得できなかったこんな疑問があった。「トルコを侮辱する罪で刑法301条に基づいた尋問されたり起訴された側のほぼ全員に対しての巧妙に仕組まれた解決策、あるいは法的な解決策があった。初公判で結論は出ていた。であれば、フラント・ディンクはどうして懲役6ヶ月なのか?」
■弱いところを突かれればやり過ごす
これは、そもそも間違った思い込みや無用な問いかけではない。思い出してみて欲しい、オルハン・パムクの公判が始まるより前に「どうやっても裁判は無しにならないのか」と言うほどに、ほぼ覆る可能性はなかった。誰を訴えるにせよ法務省が裁判の為の決定を出す必要があった。ゆえに、法務省に問う必要があり、実際にそうされたのである。
ボールが自分に投げられた(=お鉢が自分のところに回ってきた)と考えた法相は、プレッシャーの中で、一方ではパムクに対して腹を立てたが、またその一方では公の場に出て「私はこのような件については何も言いませんよ」と言うために様々な招きに応じていたのだった。
結果として、「パムク裁判」の初公判が開かれ、その最初の場面に起こった暴漢の襲撃でトルコが世界に恥をさらすや、第2回公判では同様のことが起こらないように、と第2回公判そのものが必要ないとして裁判は無しになり、パムクの刑法301条に関わる冒険談には巧妙な解決策でもって幕が引かれたのだった。.
同様の経緯はよりささやかではあるが、エリフ・シャファック裁判でも起きた。.その当初は紛糾した裁判は初公判で、シャファックに求刑する必要はないとして幕が下ろされた。タイイプ・エルドアン首相もシャファックに電話をかけ、「お気の毒でした」とその意図を伝えたのだった。
同様の弱いところを突かれればやり過ごす解決策はアルメニア会議の後に書いた内容が原因で、「トルコを侮辱した」罪で訴追された新聞人や研究者の友人の身にも起きたことだ。
■答えられない
これらの裁判が、こういった形で「弱いところを突かれればやり過ごす解決策」で終息したことを私が羨んでいる、とはお思いにならないで欲しい。逆に、このような裁判や尋問が開かれたことだけでも、嫌疑がかけられた当人たちからすれば、極めて重い代償を支払ったのだ。あらゆるこの種の裁判にかけられた友人たちが経験した不当さが、彼らにいかに重くのしかかるものなのか、私はそれをよく知っている人間のひとりで、現にその重みを荷っている人間のひとりなのだ。
私にとっての苦痛は、彼らの裁判の際には示された懸念や世論の熱狂ががフラント・ディンクの裁判ではどうして示されなかったのかを問い答えることだ。
実際に我々が目にしてきたように、この弱いところを突かれればやり過ごすというやり方は政府にある種の選択肢を与えた。刑法301条の廃止を求めるEUの圧力に対して、「ハッピーエンド」なこの方法は好例として世に示された。政府が301条に対して身動きが取れなくなり、EU首脳に対して何ら満足に答えることができない唯一の例――それがフラント・ディンクに対して刑が下されたことだった。話題がこの裁判に及ぶと、彼らは口をつぐんだ。
では実際のところ、「トルコを侮辱する罪で刑法301条に基づいた尋問されたり起訴された側のほぼ全員に対して、巧妙に仕組まれた解決策、あるいは法的な解決策があり、判決公判よりも前に初公判で結論は出ていた。であれば、フラント・ディンクは――さらに言えば、何ら罪にはあたらない論説ひとつのせいで――どうして懲役6ヶ月となったのか?」
■アルメニア系であることの意味
そう、われわれ全てにそれぞれの答え方がある!特に私には。結論は、私はこの国の国民で、ずっと皆と平等になりたいと願っている、というものだ。
アルメニア系であるがゆえに、当然、これまでに少なからざる消極的な差別を経験した。例えば、1986年にデニズリ第12歩兵連隊へ短期の兵役(8ヶ月)のために行った際、私以外の全ての同僚には、訓示式のあと下士官の階級が与えられ、私はひとり分かれて兵のままとされた。そんなことは、子供ふたりをもつ夫たる男が、気にかけるべきことではなかったのだ、きっと。そのうえ、一種の快適さも保証された。治安業務や困難な職務は与えられないことになった。しかし、そうは言っても、この差別は酷いことだった。式典が済むと皆、家族と幸せを分ち合っていたけれど、ブリキ張りの兵舎の裏で、私は、たったひとり、2時間くらい声を上げて泣いた――そのことは決して忘れられない。佐官が私の部屋を訪ねてきて、「悲しむな。何か問題があったら、私のところへ来るように」と言ったのが、今でも私の思い出の中の傷だ。
刑法第301条で訴追され、赦免されたり服役したりすることが、訓示式とは別物なのは、言うまでもない。
ゆえに、「彼らに与えなかったのだから、私にも与えないべきだった」とか、「私に与えたのだから、彼らにも与えるべきだった」といった探求は私の意図するところではない。しかし、差別に遭った経験に心を痛めたことがある人間としての、私の当然の反動のゆえに、こう問うのを決して押しとどめることができないと、打ち明けねばならない。「私がアルメニア系であることが、この結果に何らかの意味を持ったのか?」と。
■私が知ったこと、感じたこと
この問いに対して、私が知っていることと、感じていることを並べつつこれから示していく答えが確かにある。要約すればこうだ。誰彼が決定を下す。そして「こやつ、フラント・ディンクはもう図に乗ってきた・・・やつに分(ぶん)を思い知らせなくては」と実行に移した・・・。
これは私自身と私自身のアルメニア系アイデンティティに主眼を置いた言い分だと承知している。 私が大袈裟にしている、と仰る向きもあろう。しかし、私の心中での受け取り方は、こういうことだ・・・。私の手元のデータと自らの経験では、この自らの言い分以外に選択の余地はない。善かれと思い、今、私の経験と思いの一切を、これを読む貴方がたに伝えようと思う。今後どうなるかは'、貴方がたが知ることになろう話である。
■「分」を思い知らせる
特に、フラント・ディンクが「図に乗って」という部分について多少説明したい。
ディンクという奴は随分長い間彼らの注意を引いてきたし、彼らを憂鬱にさせてもいた。1996年に、『アゴス』を刊行して以来、アルメニア社会の様々な問題について発言し、その一方でその権利を要求した。また、歴史に関する声明に関連するトルコ公定テーゼを快く感じていないという自身の立場を明確にしてもいたが、「分」を飛び越えた訳ではなかった。しかし、実際(「分」という)グラスから雫が零れ落ちたのは2004年2月6日の『アゴス』に掲載された「サビハ・ギョクチェン」に関するニュースだった。
ディンクの署名付きで「サビハ・ギョクチェン女史の謎」と題されたニュースで、ギョクチェンのアルメニア国民の親戚がインタビューに応じていて、彼らは、アタテュルクの「養女」であるギョクチェンが、実は孤児院から引き取られたアルメニア系孤児であった、と主張していた。
このニュースが、トルコで最大の発行部数を誇る『ヒュリエット』紙が2004年2月21日付で『アゴス』から転載し世の知るところとなると、起こるべきことが起こった。そしてトルコ中が大揺れに揺れた。15日足らずで、あらゆるコラム欄にはこのニュースに対する肯定的、否定的なコラムが掲載され、様々な引用から様々な見解が導かれていた。
あらゆるこのような見解のうち最も深刻なものは、参謀本部の文書の形での声明だった。参謀本部はこのニュースを報じた人々に、「このような象徴(=サビハ・ギョクチェン)を、その目的が何であれ、議論しようとすることは、国民的一体性と社会的安寧に対する罪である」との声明を出し警告した。 彼らからすれば、ニュースを報じた人々は「反動思想の持ち主」だったのだろうか。(ニュースを報じた側は)トルコ女性の神話あるいは象徴となった人物のトルコ性を突然に貶め、彼女のアイデンティティを揺るがそうとしているのだった。誰だったのか、こんな無礼者どもは、フラント・ディンクとは何者だったのか?奴に分を思い知らせねばならなった。
■公的な「雑談」への呼び出し
参謀本部の声明は2月22日日曜日に発表された。私は自宅のテレビニュースで延々と続く声明を聴いた。その日の夜はとても気分が悪かった。翌日になれば何らかのことが起きるだろうと感じた。そして、経験と直感は私を裏切ることはなかった。翌朝、早い時間に私の電話が鳴った。
イスタンブル県副知事のうちのある人からの電話だった。彼は強い口調で、私の手元にあるニュース関連の資料を持って私が県庁へ来るのを待つ、と告げた。
「この召喚どういった目的でなされるのか」を私が尋ねると、「雑談をして、資料に目を通す」との答えが返ってきた。
私は経験豊かな新聞人を探した。この「召喚」がどういう意味合いを持つのかを訊いた。彼らは「この種の雑談は、伝統的なものではなく、法的手続の類でもないが、手元の資料を携えて召喚に応じるのがいいだろう」と助言してくれた。
■用心するべきだった
私は召喚に応じ、手元にある資料を携えて副知事のもとへ赴いた。
副知事はひどく丁重だった。部屋に入るようにと告げられると、部屋には他に女性ひとり、男性ふたりが座っていた。彼はうやうやしく「彼らが自分に近しい人間であり、われわれが話している間彼らがこれそれの準備をするが、支障があるかどうか」を尋ねてきた。
「なんら支障はない」と答えて座る頃には、わたしは、彼が本当に丁寧なのだと理解した。
予想外の形で副知事は切り出した。「フラントさん」と彼は言い、こう続けた。「貴方は、経験豊かな新聞人でいらっしゃいます。より用心して報道しなければいけないのではありませんかね?次に、こういったニュースに一体何の必要があるのでしょう?ほら、世の中がひどく動揺しているではありませんか。.いや、私どもは貴方を存じております。ただ、巷の人間はどうでしょうか?貴方がこのようなニュースを何か別の意図を持って報じたのだと考えるかもしれません。ほら、この紙面をご覧になれますか?アルメニア教会の総主教が声明を出したそうです。またインターネットサイトの中には、アルメニア社会のいくつかの組織に対して、非道なテロと考えられえる活動をしようとしているものがある、とのこと。私どもは彼らを捜しブルサで見付けて、法の手に引渡しました。ただ、巷にはそのような人間が沢山いるのです。この手のニュースには用心すべきではありませんか?」
副知事がこう切り出して始まった「雑談」には、部屋に招かれていた人のうち男性が加わり、その後は――本当に――話題が別のことに飛ぶことは無かった。彼は、副知事の言葉を、よりはっきりとした言い方で繰り返した。私が用心するよう、そして国家と社会の安定を緊迫させるような事態と私が関わらないでいるようにと言った。
「貴方がお書きになった論説のいくつかでの貴方のお考えが、それは貴方の主張に我々が納得していない場合であっても、悪いものではないことを私どもは分かっております。しかしながら、全ての人がそういった理解をするわけでもなく、社会の懸念を貴方の一身に集めてしまうことになるかもしれません。」彼はそう言いながら、私に繰り返し言って聞かせた。
私のほうは、自分がニュースをどういった意図で報じているのかについては、自らで十分に説明がつくよう納得していた。まず、私は新聞に携わっている人間であり、この時のニュースは新聞人ひとりの心を高揚させうるニュース(の価値のあるもの)だった。次に、私は、アルメニア問題を全ての死者の立場から語るのではなく、僅かながらも生き残った人々、そして今生きている人々の立場から語ってみたかった。ただ、分かってはいたことだった――生き残った人々の立場で語るのは、より困難だったのだ!
持参した資料を「見たい」とか「受け取ろう」といった声が全くかからないことに気付いてはいたが、そのまま部屋を出るところだった。資料の要否を彼らに私は問い、提出した。
そもそも話の内容からして、私をどういう目的があってそこへ呼び出したのかは明白だった。
分をわきまえるべきだったのだ・・・用心すべきだったのだ・・・そうじゃなかったから、うまくは行かなかったのだ!
■もはや標的となった私
本当に、その後はうまく行かなかった。
県庁への召喚の翌日以降、多くの新聞の少なからざるコラムニストが「私が、自身のアルメニア人アイデンティティにのっとって同記事を書いた」と言わんばかりの連載を行い、そのようなコラムの中に「トルコ人たることを損なわせる不純な血の代わりに満たされるべき清らかな血は、アルメニア人がアルメニアに打ち立てる由緒正しき血管に流れている」といった文を紛れ込ませながら、これによって私がトルコの敵であるという一致した論陣を張りはじめた。
このような報道の直後、2月26日にはイスタンブル・ウルキュジュ・オジャックラルのレヴェント・テミズ県支部長に率いられた一団の活動家が『アゴス』編集部の玄関先にやってきて、スローガンを叫び、脅しをかけた。警察はデモが行われるであろうという情報を事前に掴んでいた。『アゴス』編集部の中でも外でも必要十分な警備を頂いた。
あらゆるテレビ局、新聞社がこの模様を取材し、全部が『アゴス』編集部の前に陣取っていた。デモグループの用いていたスローガンははっきりしていた。「愛せよ、さもなくば、棄てよ」「ASALA(アルメニア解放のためのアルメニア秘密軍。1975年に設立されたとされる秘密結社。:訳者)を打倒せよ」「夜中寝込みを狙うぞ」
デモグループのリーダーであるレヴェント・テミズの行った演説では標的ははっきりと限定されていた。「フラント・ディンク、お前は今後我々のあらゆる怒りと憎悪の標的なり、我らが標的なり」
グループはデモをして解散した。しかし、どういう訳か、その日と翌日は(カナル7以外の)テレビも(『オズギュル・ギュンデム』以外の)新聞も報道することはなかった。きっと、活動家グループを『アゴス』の玄関先に差し向けた何らかの力が、出版とメディアをも、あのような否定的な見解とスローガンが発せられてすぐに報道管制下に置くことに――少々の例外はあれど――成功したのだろう。
■危険の淵で
『アゴス』編集部の軒先では似たようなデモがその数日後に、「不当なアルメニア人の主張に対抗する闘争連盟」と自称するグループによって行われた。直後に、「舞台」にはあの日まで全く世間の知るところではなかった弁護士ケマル・ケリンチスィズと彼が会長を務める「大法律家連合」が登場した。ケリンチスィズとその取り巻きは、シシリ共和国検察局に赴き、私を告訴した。この起訴によって、トルコという国の価値を全くもって傷つけている刑法301条に関わる諸々の裁判の審理が速まることとなった。私に関して言えば、新しく危険に満ちたプロセスが始まったのだった。
実際、私は、これまでの人生をあらゆる危険に囲まれて行きつ戻りつ過ごしてきた。危険が私を愛していたのか。あるいは私が危険を・・・。
こうしてまたもや私は崖っぷちに立っていた。. 私の背後には、(崖へ突き落とそうと)またもやいろんな人々がいた。.彼らのことを思っていた。そして、彼らがケリンチスィズの一団に限られたごく一部の人々から成っているのではのではないことも、かといってそれらの(ケリンチスィズの背後に連なる)人々を実際に見ることがありえないのも、十分に分かっていた。
■読者が理解するはずだった
最初のころは、「トルコを侮辱する」罪でシシリ共和国検察局によって私に対して開始された尋問に疑いを抱くことはなかった。これが初めてという訳ではなかった。同様の裁判には、そもそも「ウルファ」の頃から慣れっこだった。2002年に(シャンル)ウルファで行われたある会議で私が行った演説で、「私はトルコ系ではなく・・・アルメニア系トルコ国民である」と述べたために、「トルコを侮辱した」として3年前から裁判にかけられていた。 どのようなところに落ち着くのかは私の知るところではなかった。全く興味が無かった。ウルファ出身の友人の弁護士たちが私が出廷しないまま公判を進めていた。
シシリ検察局へ行き、宣誓をした時でさえ、ほとんど心配していなかった。結局のところ、私は自分が書いたことと自分の信念を信じていた。検事が、私の論説のそれ単独では何ら意味を成さないあの文章をではなく、論説の全てを検討したならば、私に「トルコを侮辱する」ような意図がないのは容易に理解できるはずだった。そしてこの喜劇はお開きになるはずだった。
尋問の最後のころには、裁判なんて開かれないだろうと確信をもって眺めていた。
しかし、驚いたことに、裁判は開かれたのだ!
■自分自身を信頼していた。
それでも、私は自分の楽観性を失ってはいなかった。テレビ番組で、私を告訴したケリンチスィズに対して「望んでいる裁判では全くなく、この裁判で何ら罰を受けるはずはなく、もし私が刑罰を受けたら、私はこの国を棄てるかもしれない」と言うほどだったのだ。私は自分自身を信頼していた。私の記事にはトルコを侮辱するような意図や社会的背景は――微塵たりとも――なかった。一連の私の書いたもの全てに目を通した読者にはこのことがはっきりと分かるはずだった。
実際、有識者として任命されたイスタンブル大学教職員3名からなる調査団が法廷に提出した報告書も、私のこの意図がその通りであると明記していた。私には気を揉む原因などなく、裁判のそこかしこの場面であった間違いは、正されるはずだった。
■「我慢、我慢」と言い聞かせながら・・・
しかし、正されることはなかった・・・。検察側は、有識者の報告書にもかかわらず、求刑した。すぐさま裁判官は懲役6ヵ月の判決を下した。
判決の報を初めて耳にしたとき、裁判の間じゅう抱いてきた希望が無残に押しつぶされたその下に、自分がいるのだと分かった。困惑していた・・・。失望と憤激の境目にいた。
「きっと、こんな判決がでる、私の潔白を示すような判決が。貴方は、自分が語ったことや書いたことを何ら悔やむことはないはずだ。」そう言い聞かせて、何日も何ヶ月も自らの頼りとしていた。全ての公判で「トルコ人の血は純粋ではない」と私が答弁したことは、新聞のニュースとしても、コラム欄でも、テレビ放送でも伝えられていた。これら全てのことで、「トルコ人の敵」として以前より少々私は有名になっていた。
裁判所の廊下でファシストたちやレイシストの暴言にさらされた。彼らはプラカードを掲げたデモを浴びせた。何ヶ月にもわたって何百件という電話、Eメール、封書での脅迫があったが、これら全てのことで、その数は少々増えた。あらゆるこういったことに対して、私は「我慢だ」と言い聞かせ、無実の判決を期待してそれを頼りにしていた。判決が出れば、それがどういうものであれ「真実」となるだろうし、これらの人々は自分がしたことを後悔するはずだった。
■私の武器は誠実さだけ
しかし、こうして判決は下され、私の希望は全て打ち砕かれた。 もはや、人が経験できる鬱屈や失望の行き着く先があるとすれば私はそんな状態にあった。
裁判長は「トルコ国民」の名の下に判決を下し、私が「トルコを侮辱したことを」法的に明記したのであった・・・。私は万事に納得することができた。しかしこのことについては納得することはできない。
私の解釈では、ある人間が共に暮らす人々を何らかの民族的(エスニックな)あるいは宗教的差異を根拠に侮辱するのがレイシズムであり、今回の場合その点に抵触する面などあるはずもなかった。
こう思いながら、編集部の玄関先で待ち構えている、「以前私が言ったように国を棄てるのか否か」を確認したがっている出版・メディアの中の同僚にはこう説明した。「弁護団と相談します。最高裁に私の無実を訴え、必要ならば欧州人権裁判所にも赴くでしょう。このプロセスを踏んでも潔白が証明されない場合、私は自分の国を棄てることになるでしょう。なぜなら、私が思うに、このような罪で罰を受けた当人が侮辱した他の国民と共に生きる権利はありませんから。」
こういった言葉を口にすると、やはりそういう場合ではいつもそうであるように、感情がこみ上げてきた。私の武器はこれしかなかった――誠実であること。
■ブラックジョーク
しかし、とくとご覧になるがよろしかろう。トルコの人々の目から私を孤立させ、はっきりと分かる標的にしてしまおうとする「底知れぬ力」は、この私の説明にも「引っかり」があるとし、今度は、裁判に圧力を加えようとしたとして私を告訴した。 さらには、彼らはその(告訴の内容を示す)説明文を全ての出版・メディアに送ったが、その視線の先にあったのは、いずれにせよ『アゴス』内部の人間だった。
『アゴス』の責任者たちと私は、今度は裁判に圧力をかけたと訴えられることとなった。
「ブラックジョーク」とはきっとこういうことに違いない。
私は思うのだが、一人の容疑者以外の一体誰が裁判に圧力を加える権利があるというのか?しかし、喜劇をご覧になるがいい。まるで今回も裁判に圧力を加えようとしたとして訴えられているという喜劇を。
■「トルコ国家の名の下に」
こう打ち明けねばならない。私が抱いてきた自国の「司法制度」や「法」の本質に対する信頼感は大きく揺らいだ。. つまり、この国の司法制度は、多くの官僚や政治家が口にするのを躊躇わないことから分かるとおり、独立してはいないのだ。司法は国民をではなく、国家を護っていた。
実際のところ、私には、次のことには全くの確信がある。私に対して下された判決が、如何にに「国民の名の下に」と謳っていようと、これが「国民の名の下に」ではなく、「国家の名の下に」下された判決であることは明かなのだ。ゆえに、私の弁護団は最高裁に上告する予定だったが、上告した場合、私に分を思い知らせることを決定した「底知れぬ力」がその場合に限って圧力を加えない――そのことを保証するのは一体何か?
そして、次に実際のところ、最高裁によって下されるのは正当な判決だろうか?マイノリティーのワクフ財を接収する不当な判決に、最高裁は署名しなかったのであったか?
■検事長の尽力にもかかわらず・・・
現に、私たちは上告に及んだが、どうなったのか?
最高裁の検事長は有識者の報告書と同様に罪に問われる要素はないと明らかにし、私の無罪を求めたが、最高裁はまたもや私を有罪とした。私個人は自分の書いたことを十分に信頼していたけれども、最高裁の検事長のほうも、あれほどに自分が読み込み理解した内容を信頼していた。ゆえに、彼は判決に抗議し、裁判を総務委員会へ委ねた。
しかし、何と言えばいいのか、私に分を思い知らそうと誓い、おそらく私の裁判のあらゆる段階で私の知る由もない方法でその存在を感じさせてきた、かの「大きな力」が、今度も背後にいたのだった。現に、総務委員会でも多数決によって私がトルコを侮辱したことが宣告されたのだった。
■ハトのよう
はっきりしているのは、私を孤立させ、弱らせ、無防備にしようと必死になっていた人々が、それぞれに念願を果たした、ということだ。今となっては、社会に流布する薄汚れて誤った情報のおかげで、フラント・ディンクを、「トルコを侮辱した」人間だと考える人々がいるし、その数は決して少なからざる深刻な「反ディンク派」を生んでしまった。
私のパソコンのダイアリーとハードディスクはこの「反ディンク派」の国民から送られた怒りや脅迫に満ちた文章で一杯である。
(このような書簡の一通が、ブルサから投函されていること、そして、間近にせまる危険を主張していることにとても不安を覚えていること、更には、脅迫文をシシリ検察庁へ提出したにもかかわらず今日まで何ら成果がないこと――以上のことを書くべき場面が来たので、記しておく。)
この脅迫はどのくらい信憑性のあるものなのか、あるいはそうではないのか?実のところ、それを私が知ることは、きっと不可能だ。私が本当の脅迫だと感じ耐え難く思うのは、自分自身が自分自身に課してしまう拷問にこそある。「この人たちは今、私について何を思っているのだろう」という問いがそもそも私の頭を悩ませる。悔しいことに、もはや昔より私は世に知られるようになっていて、「あ、見ろよ、こいつ、あのアルメニア人じゃないか」という視線が突き刺さるのをより一層感じる。そしてその反動で、自分が自分自身に拷問しはじめてしまう。
この拷問は4つの要素からできている。心配してしまうこと、疑いの目で見てしまうこと、用心深くなること、そして何かにびくびくしてしまうこと。
私は、まるでハトのようだ。
ハトのように上下左右に目配りしている。
私の頭は彼らのように動き回る・・・そして元に戻す時にはそそくさと素早く戻す。
■ほら、貴方の代償ですよ
アブドゥッラー・ギュル外相は何と言ったか?ジェミル・チチェキ法相はなんと言ったか?「思うに、第301条がこれほどに拡大解釈されうる余地はありません。訴追されて収監された人がいましたか?」
まるで、代償を払うのは服役した場合だけであるかのようじゃないか・・・ほら貴方への代償ですよ・・・ほらほら・・・
人をハトのようなびくついた日々に押し込めてしまう――そのことが一体どんな代償なのか、ご存知ですよね、皆様、えぇ、大臣の御方々?・・・ご存知です、よね?・・・
貴方がたはハトをよくよくご覧になったことが一度もないのですか?
■「死ぬか生きるか」と口にしたこと
簡単なものではなかった、私のこれまでの日々は・・・。まして、家族と共に過ごしてきた日々は。ひどく真剣に、国を棄ててどこかへ行ってしまおうと思い悩んだ時期もあった。
特に、脅迫が私の近親者に及んだ時には・・・。そうなった以上、なす術がなかった。
「死ぬか生きるか」とは、きっとこういうことなのだ。
私個人の意思で決めることもできたかもしれない。ただ、親しい誰かをひとりでも危険にさらす権利は、私にはなかった。
私個人は英雄になれたかもしれない。ただ、親しい人を残して、他の誰かを危険にさらして、英雄になる権利は、私にはなかった。
こうした、どうしようもない時期に、家族と子供たちを集めて、私は、彼らを頼り、彼らからもこの上ない支持を得た。彼らは私を信頼してくれていた。私が居る場所が何処であっても彼らもそこについていくことになったはずたっだ。私が「行こう」と口に出せばそうなるはずだった。「留まろう」と言えば、留まるはずだった。
■留まって、抗いながら立ち続けること
うまくいった場合、私たちは何処へ向かうのだろうか?アルメニアか?いや、私のような不正に黙っていられない人間が、かの地の様々な不正にどれほど身を委ねていられようか? アルメニアでは私はより大きな難問に首を突っ込むことにはなるまいか?
ヨーロッパへ行って暮らすことは十分に選択肢に入っていた。私は、何かの折に3日間ヨーロッパに行くことがあったら、4日目には「もう終わって帰るのかぁ」と憂鬱に身悶えるような、この国の典型の如き人間だ。私はそこでどうするだろう?
平穏が私を駄目にしてしまうだろう。 「煮えたぎる地獄」を見捨てて「用意された天国」へ逃げるのは何にもまして私の生き方に反する。
私たちは、自分たちが生きている地獄を天国に変えようとする人々の類なのだ。
トルコに留まって生きていくことは、私たちの本当の望みだし、トルコで民主主義のために悪戦苦闘し、私たちを支持してくれる、何千人もの親友たち――これまでの人生で知り合った人も、これからの人生で知り合うことになる人も含めて――を思えば当然のことだった。
留まって、抗いながら立ち続けようとした。
しかし、いつか去らざるをえなくなる日がやって来たとしたら・・・ちょうど1915年と同じように去ることになるのだろうか・・・
私たちの父親たちのように・・・何処へ行くかも知ることなく・・・それまで歩いたことのある道を徒歩で、縄目の苦しみを感じながら、苦痛を経ながら・・・
そうなれば、ある種の非難を抱いて、私たちは祖国を棄てゆくことになる。そして、私たちは向かうことになる、自分たちの心が、ではなく、自分たちの両足が、運んでいく場所へと。
いずこなりへと・・・。
■ハトの生き様「びくつきながら、でも自由に」
そう言ったところで、万に一つだって、私たちには棄てるような状況が起こる必要はない。
そうならない為に、私たちは大いに希望を抱いているし、そもそも、少なからずその根拠はある。
これから欧州人権裁判所に告訴する。裁判が何年かかるかは分からない。分かっているのは、そして、多少なりとも私を安心させるのは、少なくとも裁判が結審するまでは、私がトルコでずっと日々を重ねていくであろうこと。私が今後これ以上のどんな不正にさらされることになるのか、誰にわかろう?
法の場で私の意に沿った判決が下されれば、当然、私はとても嬉く思うだろう。その嬉しさの意味はこうだ――私の国(トルコ)を棄てなくてもよくなるだろうから。
きっと、2007年は私にとってより一層困難な一年になるだろう。他の裁判は続くし、新たな裁判も始まるだろう。
しかし、すべてはそうある一方で、こんなことが、唯一私を勇気付けてくれるはずだ。
そう、私が心に抱く不安はハトの「びくついた様子」と同じだということが。でも、この国では人々がハトを何とも思っていないことは分かっている。
ハトは都市のど真ん中で、人々の雑踏の中でも、したたかに生きている・・・。
ええ、少々びくついて、でもあんなに自由に。
URL: http://213.243.28.21/haber.php?haberno=210582
(翻訳者:長岡大輔)
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