アルメニア人虐殺否定処罰法案の通過阻止のため、米国でロビー活動
2007年02月13日付 Zaman 紙
いわゆるアルメニア人虐殺(否定処罰)法案がアメリカ議会を通過しないよう、トルコは多大な努力を行っている。外務委員会は後日ロビー活動をおこなうためにアメリカへ渡る予定だ。
米国議会議員ら一人一人と会う予定の訪米団の中に興味深い名もある;エルズルム選出の議員であるムザッフェル・ギュルユルト教授である。彼の父はアルメニア人による残虐行為を直接体験していた。彼の父が体験した苦難をまず上院議員に説明しようと計画している公正発展党議員は、(このことが)効果的であると考えている。ギュルユルト氏の父であるアリ・ヒュスニュ氏は、14歳のとき捕虜となった。連れていかれた宿営地では炊事担当として働かされた。アルメニア武装集団はオスマン軍が来る前に、すべての男性を別の場所へ連れて行き殺害した。彼の父は足に釘が刺さっていたため、その日宿営地にとどまり助かったそうだ。ギュルユルト氏は、エルズルム中心部だけで13273人のトルコ人が殺害されたことを強調した。
トルコ大国民議会外務委員会のメンバーはアメリカへ3つの訪米団に分かれていく予定である。議員らはそこでアルメニア人の主張に反論する。公正発展党議員ムザッフェル・ギュルユルト氏は別の手段をとるつもりである。ギュルユルト氏は、議員らに父の体験を説明するのである。アルメニア人らが行った残虐行為を父から聞き伝えたギュルユルト氏は次のように語った。:「私の父、ヒュスニュは1901年生まれである。1915年にロシア人がエルズルムを占領した際14歳であった。占領下に置かれた際、住民の大半が逃げた。牛車でトカトへ移動しようとしていたそうだ。父らは移動の準備をしていると、エルズルムの軍需工場で爆発があった。父は負傷し、トカトへ行くことができなくなった。ロシア人らがエルズルムを占領した後、父らは捕虜となった。ロシア人はボルシェビキ革命の後エルズルムから撤退した。しかし占領をアルメニア人らが続けたのだ。アルメニア武装集団はトルコ人に残虐行為を始めた。その当時飢饉も発生し、食料が何もなかった。ロシアから鉄道で小麦が送られることになったそうだ。しかしその年は非常に多くの雪が降り、すべての道が雪で閉ざされた。アルメニア人らは、私たちトルコ人をつかって道路を通行できるようにするのだといって、トルコ人を集め、連れて行った。父はかまどに火をおこすため木を切っている際、足にくぎを刺し歩けなくなってしまった。アルメニア人はその日労働させていた人、全てを連れて行った。ヤヌクデレ谷で皆殺害した。父は次のように言った:私の足に釘がささったため、彼らは私を連れて行かず、私の命もこのように救われた。3月12日にオスマン軍がエルズルムに来てアルメニア人は逃げていった。」
ムザッフェル・ギュルユルト氏は、過去に苦しみを味わったとしても、嫌悪や憎しみを抱き続けることは正しいことではないと述べている。
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( 翻訳者:栗林尚美 )
( 記事ID:10160 )