日本政府は福島第一原子力発電所の事故について、その深刻度をチェルノブイリの事故と同等のレベル7に引き上げたと発表した。
この事故が日本にとって、計り知れない規模の損害を与えたことは日々明らかになっている。25年前の今日起きたチェルノブイリの悲劇については、100万人近い人々をがんによって死に至らしめたとの計算がされている。このような事故に対してトルコ政府は、無比の無頓着さと無関心さで核エネルギーに固執している。
メルスィンのギュルナル郡で、ロシアのロスアトム社によって建設される予定のアククユ原子力発電所は来月、基礎工事が始まると言われている。
一方、市民はといえば、4月17日にメルスィンとギュルナルの間に159キロメートルの長さで人間の鎖を作り、抗議の声をあげた;「原子力発電所は不要だ!トルコは日本になるな!」。こうした日々広まる抗議運動は、社会の良識の声である。WIN-ギャラップ・インターナショナルが47カ国、3万4千人を対象に行った調査によれば、福島の原発事故以降、世界において原子力エネルギーを支持する人の割合は57%から49%へと低下し過半数を割った。他方、反対派は32%から43%へと上昇した。
一方、トルコにおいては予想に反し、福島原発の事故以前でも原発賛成派は45%と過半数以下で、事故後の今日ではその割合は41%に低下している。そして反対派は51%から57%へ上昇している。政府が核事故の悲劇を我々にもたらさないための唯一の望みは、原子力発電の推進に対し、市民社会がよりいっそう「ストップ!」の声をあげていくことだ。
タラフ紙はこのところ、ウィキリークスのトルコ公文書を次々と公開している。文書は、アメリカ政府がトルコ政府の核政策を注視し、核エネルギー計画が核兵器計画にすり替わることへの不安感があったことを示している(タラフ紙、4月12日付)。なぜなら、核エネルギーは核兵器を作るための第一歩だからである。もちろん、この不安はトルコの市民社会においても同様に存在する。トルコ政府は、一方で中東地域の核兵器廃絶を望みながら、他方では核兵器の製造を目論んでいるのだろうか?
これに関連し、4月15日付けのニューヨークタイムズ紙は、「フクシマとヒロシマ」というタイトルで注目すべき解説を掲載した。ハーバード大学の精神科医、ロバート・ジェイ・リフトンの発言を手短に伝えると;フクシマで起きた一連の出来事は世界中に恐怖を喚起させた。この恐怖は不当なものではない。確かにフクシマはヒロシマではなく、人類に対する最大の脅威は核兵器である。しかしまさに核兵器同様、原子力発電所が撒き散らす放射能も、目には見えず、臭いもせず、触ることもできないという「汚染」源である。その影響は1年、あるいは1世代では確認できなくても、後世にはそれが現れる。残念なことに、放射能が人間にどのような害を及ぼすかについては、ほとんど情報がないのだ。
原爆の悲劇を経験した日本がその後、どこをどうして、使用するエネルギーのおよそ3分の1を原子力発電から得るという選択をしたのかが問われる。
ヒロシマ、ナガサキで生き残った人々は、この選択に猛反対した。しかしながら、(核の)脅威を否定し、隠蔽に躍起となり、企業と政府の間には親密な関係が築かれた。核エネルギー推進のロビー活動は、世界中でそうであるように、日本においても核エネルギーと核兵器が異なるものなのだと刷り込むことに成功した。
フクシマがもたらした脅威について、「(最後の)審判の日」との表現を用いることに疑問を呈する人もいる。もちろん、誇張した表現は避けなくてはいけない。「しかしながら、このような表現がなされる背景には、恐れられているものがまさに『審判の日』を髣髴とさせるものであり、ある意味、自らを消滅させることになりかねない科学技術を開発してしまったという我々の自覚がある。原爆と原子力発電のあいだに、なんら関係がないとは言えないのである。(脅威を)否定するのを断念し、原因が原爆であれ発電であれ放射能の影響は同じであること、自然災害や人間の過ちの下ではいかなる科学技術をもってしても安全とはいかないこと、人類にとって最も危険な科学技術から、『汚れなき』もの、無害なもの、あるいは私たちを救ってくれるものを手に入れることはできないのだということを、我々は認めなくてはならないのだ。」
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( 翻訳者:金井佐和子 )
( 記事ID:22271 )