リビア:アル=カッザーフィー殺害
2011年10月21日付 al-Hayat 紙


■暴君の最後...そしてリビア人は自由を祝う

2011年10月21日 『アル=ハヤート』

【ロンドン、ワシントン、ニューヨーク:本紙】


 リビア人たちは、「暴君の死」を祝った。死亡したのは、ムアンマル・アル=カッザーフィー、同人の息子のアル=ムウタスィム、サイフ・アル=イスラーム、国防相のアブー・バクル・ユーヌス、諜報長官のアブドッラー・アッ=サヌースィーである。昨日(20日)のアル=カッザーフィーの死の状況が粛清か処刑であるかについて、夜が更けるまではっきりしなかった。特に、世界的テレビ局が、シルトで革命戦士によりアル=カッザーフィーが逮捕され、二人の捕獲者のもたれかかって歩く写真が放映され、その後、アル=カッザーフィーの顔や胸が血まみれになっている写真、次いで同人がミスラータ市にてベットで死去している写真が放映されると、不明確さは深まった。

 移行国民会議とその幹部たちは、「暴君」の死を宣言するにとどまった。その暴君は、リビアを1969年初め以来支配した。移行国民評議会幹部は、誰一人何が起きたのか詳細を語らなかった。彼等は、司法医による解剖が終わるのを待っていた。

 リビアの暫定政府のマフムード・シャンマーム情報相は「ロイター」に対し、アル=ムウタスィムは父親と一緒に隠れているところを殺害されたことを確認した。

 移行国民評議会のムスタファー・アブドゥルジャリール議長は、本日(21日)にリビアがアル=カッザーフィー政権から解放されたことと、全ての者が平等な民主主義国造りの歩みが始まることを宣言することを否定した。同議長は、昨日(20日)早朝にアル=カッザーフィー支持者の抵抗が壊滅した際のできごとの一端を説明するかもしれない。アル=カッザーフィー支持者らは、シルト市と「2番街区」を防衛していた。彼等は、「2番街区」の陥落阻止、革命戦士の侵入阻止に死に物狂いだった。そして、約40名がシルト市の西方へと撤退したが、その中にアル=カッザーフィーがいるものと思われていた。

 シルト市での革命戦士たちは、「小路から小路へ、通りから通りへ、家から家へ」と40日間にわたり戦った。そして、彼等はついにアル=カッザーフィー政権とその民兵からシルト市を解放し、同市を救うことに成功した。シルト市は「リビアの花」と呼ばれる街から、外国人がうろつく街へと変貌していた。

 シルト市南部地区のムハンマド・ライス現地司令官は、アル=カッザーフィーは武装しており、逃走中に殺害されたと強調した。同司令官は「AFP」に対し、アル=カッザーフィーは「クライスラーのジープの車内におり、革命戦士がその車を銃撃すると車から出て逃げようとした。同人は逃走し、隠れようとして穴に入った。革命戦士が銃撃するとそこから出てきたが、片手にはカラシニコフを、別の手には拳銃を持っていた。彼は左右にふらつくと、“どうなっている?”と言った。革命戦士らは彼を銃撃し、同人は肩、足に負傷し、その影響で殺害された。」と述べた。同司令官は、アル=カッザーフィーはカーキ色の服を着ており、頭にはイマーマをかぶっていた、と付け加えた。

 同司令官は、アル=カッザーフィーがNATO軍のシルト爆撃によって殺害されたことを否定、「ミスラータの革命戦士が同人を殺した」と強調した。同司令官は、アル=カッザーフィーの体はひどく傾いており、同人が病気であることは明らかだった。同人は、負傷に耐えられなかった。と述べた。

(後略)

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( 翻訳者:高岡豊 )
( 記事ID:24302 )