4月30日の歴史的戦勝日についての老兵士の記憶
2014年04月27日付 VietnamPlus 紙
1975年4月30日は、民族解放、アメリカ・傀儡政権体制の打倒、南部完全解放・国土統一の歴史の一コマとなっている。
サイゴン進攻計画を準備し、作戦の東翼に足掛かりをつくるため、わが軍は多数の先鋒隊を組織した。その中で、ビエンホア省ジィーアン市(現在のビンズオン省)における、進軍ルートを確保する戦いの勝利は、1975年春のサイゴン解放を成功させるのに大きく貢献した。
ナムディン省ナムチュック県ナムホン社の退役軍人レ・フー・ギア氏は、この戦いの歴史的証人の一人である。1950年にこの世に生を受け、満19歳の時に軍隊に入った。第338師団・第2大隊へと配属され、タインホア省ゴックラック県で訓練を受けた。
1970年4月、南部出征命令を受け、彼と戦友たちはヴィンリンと接するクアンビン省南部まで行軍して停止し、南ラオス・ケサン国道9号線の戦闘に参加した。その後、陽動作戦のため、彼の部隊はクアンビン省クアンチャックに引き返す命令を受けた。
1970年から1975年初め、彼はクアンビン省の戦線に従事し、ハティン省キーアンからクアンビン省のトゥエンホアに至る22C道路の建設に参加した。
1975年春にホーチミン作戦が開始された時、ギア氏は第11ソンラム中隊の中隊長で、戦友たちと共に、ホーチミン作戦を支援し戦闘の一翼を担う命令を受けた。
1975年4月28日午後4時頃、彼の中隊にビエンホア省ジィーアン市(現在のビンズオン省)の橋を攻撃せよとの命令が下った。その橋は地元の人からは通常ジィーアン橋と呼ばれていた。
この橋はビエンホア省とサイゴンを繋ぐ交通の要衝で、サイゴン中心部から30キロメートル余りのところにあった。この橋を占拠すれば、わが軍が東北方向に沿ってサイゴンに進攻する道が開け、ほかの主力軍と協働するのに有利となるので、橋は重要な位置をしめていた。
ギア氏は感慨深げに回想した。「その時のジィーアン橋の戦いはとても苦戦した。仲間たちは約170人いたが大半が負傷・戦死し、46人しか残らなかった。しかし幸運なことに武器はまだ十分残っていた。4月28日夜から29日未明にかけて、我々は橋を攻撃する作戦を開始した。その時、私は北側の橋のたもとで軍を掩護する仲間たちを指揮していた。4月29日の朝4時、発砲許可がおりた。
速く強く、速戦即決という方針で、夜明け近くに我々は橋を制圧し、負傷者・死亡者はさほど出なかった。橋の両側は阻止され、敵のトーチカが4つ残っていたが、生き残っていた仲間たちを4つの小隊に分け(各小隊は9~10人)、それぞれが1つのトーチカの殲滅を分担した。
まだ薄暗い時を利用して、兵士たちは軍を掩護し時機を待った。敵に気づかれないように、移動しながら匍匐して道路の両側に近づいた。それから発砲し、次々とトーチカを落としていった。4月29日の朝、中隊は橋とその両岸を完全に制圧し、橋を守る陣をつくり、サイゴンに進攻するわが軍を待った」。
激戦の日々の戦友の情や軍民の情の記憶をギア氏は常々思い出している。彼はこう語った。「橋で攻防している日々、毎日、米やキャッサバや家にある何かしらの物を持って、部隊にもてなしてくれる地元のお母さんがいた。そのお母さんは、わが部隊のある兵士のノートの字を見て、目に涙をいっぱい溜め、その兵士の手を取って泣いた。お母さんは自分にも兵隊になって戦死した息子がいたと言った。お母さんは些細な事から我々を気の毒がってくれた。『みんなの字はきれいだね。こんなに勉強ができるのに、北からここまで来て、敵を討ち、国を救わなければならないなんて』」。
彼はまた、戦友のレ・トン・タオのことを忘れられないでいる。タオはタインホア省ドンソン県出身の小隊長で、銃弾が片腕と片足に当たって切断されたようになった。彼を後方に送って治療しなければならなかった。しかし出発前にタオはなんとかして起き上がり、残って戦う仲間たちに、あらゆる犠牲を払ってでも橋を守り『勝利しなければならない』と励ました。彼は、軍医の仮小屋に運ばれる途中、夜に亡くなった。
ギア氏の話によれば、1975年4月30日の昼11時すぎに、橋を警護していた彼と彼の戦友は、わが軍が独立宮殿に進攻したとの知らせを聞き、みな欣喜雀躍し歓声をあげた。この時、橋を通る人々で糸を織る機のように橋はごった返していた。わが軍は東北方向から陸続と行軍してきており、サイゴン方向からの避難民もやってきていた。
しかし何も兵士や同胞の歓喜の雰囲気を曇らせることはなく、人々は金星紅旗の旗か赤色の布切れや紙切れを捜して車に結んだり、手に持って道路へ飛び出し、勝利を祝った。
あらゆる人の表情には、みな眩しい幸福な笑みが浮かび、多くの見知らぬ人同士が、知り合い同士で解放の喜びを共にするかのように、握手し、顔をほころばせ、抱擁した。
40年近く経ったが、歴史的な時期の勇ましい記憶を思い起こす度に、老兵士の表情から感動を押し隠すことはできなかった。中尉で退役して、自分と戦友たちの苦しい戦闘の年月の記憶を携え、彼は日常生活に戻った。
その貢献により、彼は第一等抗戦勲章、第一等解放戦士勲章、第一等栄光戦士勲章を受章した。
1975年春の大勝利とその戦いは、いつまでも彼と戦友たちの記憶の中に深く刻み込まれている。ベトナムの軍隊と人民の革命的英雄主義の明確な証拠のように。
( 翻訳者:相野那奈子、石井恵梨、佐久間凱士、樋口由里子、山田英輝 )
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