パリで反ファシズムの闘士フイン・クオン・アンが顕彰される
2014年10月25日付 VietnamPlus 紙

 10月24日、パリの15区ポルトブランシオン大通り6番地の建物において、反ファシズムの闘士でフランス共産党党員のフイン・クオン・アンを回顧し、顕彰の銘板を設置する式典がパリ市の主催により盛大に行われた。
 駐仏ベトナム大使ズオン・チー・ズンをはじめ、各種同業組合やフランス退役軍人会の代表、フランスで生活や仕事をする多くの越橋が式典に参加した。
 ポルトブランシオン大通り6番地は、フイン・クオン・アンがドイツのファシストによってフランス北部シャトーブリアン市で1941年10月22日に射殺される前、伴侶のジェルメーヌ・バルジョンと暮らしていた場所である。
 フイン・クオン・アンは1912年4月7日にサイゴンで生まれた。15才でフランスに渡り、リヨン市のドゥパルク中学校で学んだ。
 1938年の末にトゥールーズ大学で文学士の学位を取得した後、パリで大学院に進んだ。1940年にパリ郊外のベルサイユにあるカルノー大学で見習い教授になった。
 大学生活の中で、彼は政治意識を高め、フランスで進歩的思想を持つ多数の活動や運動に積極的に参加した。
 まだリヨンにいた1936年から、彼は共産主義者学生協会書記の職務を担った。この組織は、ベネシオー市のベルリエ工場の労働者を中心とする労働者階級のストライキを通して、各大学を団結させる活動を日常的に行なっていた。
 この時、ジェルメーヌ・バルジョンと知り合うことにもなった。彼女は「ソビエトの友達」という組織を指導する立場にある女性闘士だった。そして二人はその時から結びつきを強めていった。
 第二次世界大戦が勃発すると、ファシスト・ドイツはフランスを侵略した。フイン・クオン・アンは地下活動に参加し、フランスの人々に抗戦への参加を宣伝し呼びかける為、フランス共産党と「ソビエトの友達」のビラを配った。
 フイン・クオン・アンはモスクワ放送を聞き、そこから情報を収集し、「今日のロシア」という名のフランスで秘密出版されていた新聞に記事を書いた。
 ベルサイユのカルノー大学で見習い教授をしていた時、フイン・クオン・アンは生計のために仕事をしながら、同時に自分の抗戦組織の地下活動を続けていた。
 1941年6月、フイン・クオン・アンは捕らえられ、シャトーブリアンのショワセル収容所に監禁された。ファシスト・ドイツは1941年10月20日、ナント市でドイツ人将校がレジスタンスの人々に攻撃された報復をするため、50人以上のフランス人捕虜を処刑する命令を下した。
 1941年10月22日、ショワセル監獄に収監された27人の囚人がシャトーブリアン競馬場に連れて行かれ、処刑された。フイン・クオン・アンはそのレジスタンスの人々の一人であった。
 記念式典での挨拶で、パリ副市長のカテリーヌ・ヴィオー・シャリエ氏は、ファシスト・ドイツが戦火を巻き起こし、フランスを侵略し、ヨーロッパのほとんどすべてを占領した暗黒時代のフランスの状況を思い起こした。その時、フィリップ・ペタン元帥率いるヴィシーの傀儡政権はドイツと協力し、レジスタンスに参加していた多数の愛国的闘士を収監し射殺した。
 カテリーヌ・ヴィオー・シャリエ氏は、ドイツ軍に対して戦闘するため、レジスタンスの人々の側に立ったフイン・クオン・アンの勇敢な行動と明確な政治的姿勢を称賛した。
 同氏は、73年前のフイン・クオン・アンとフランス人同志たちの犠牲はフランスの解放に貢献し、数百万の人々に自由な生活をもたらしたとした。また、今日の自由の為に戦い、犠牲になった人々に恥ずかしくないようにすべての人は生きなければならないとも述べた。
 ベトナム側からは、駐仏ベトナム大使ズオン・チー・ズンが挨拶し、占領されていたがファシスト・ドイツへのレジスタンスの決意を固めていたフランスの自由と博愛の思想をフイン・クオン・アンは受容したとした。
 同大使によると、まさにその思想と価値観がフイン・クオン・アンに武器を手に取らせると同時に教壇上でチョークとペンを持たせた。
 フイン・クオン・アンとフランス人同志の犠牲は、ファシスト・ドイツに対するフランス人の揺るがぬ意志と、世界中の人々の平和と自由に対する共通の願望の象徴となった。これは同時に国際的な連帯の象徴でもある。

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( 翻訳者:土岐健太、西田雄一 )
( 記事ID:1125 )