(Perspective) マンダレーの水祭りでの教訓 (TheVoiceWeekly Vol13No12 2017年4月24-30日, 17)
2017年04月22日付 The Voice 紙
マンダレー 4月24-30日
ゼーヤートゥー
マンダレーの水祭りは、水祭り以上のことを示している。
連邦制度やら地方分権やらとは言うものの、連邦レベルが直接介入せず、統轄権を譲渡している水祭りのような事項でこそ、州・管区政府の解釈、企画力、創造力は、水田を巨象が行くように明らかになる。特に、かつての2つ首都に基礎をおくヤンゴンとマンダレーで目にすることができる。
ミャンマー伝統の水祭りを、伝統を失わず、今の時代にも合うようにと言っても行き過ぎず、貧富に関係なくみなでそろって楽しむことができ、創意工夫で賑々しく盛り上がり、マンダレーの名声とミャンマーの水祭りの名声も高まるようなかたちで、経費もそれほど多くならないように企画できたマンダレー管区政府とマンダレー市開発委員会の能力を称えたい。もし連邦レベルが直接指揮したなら、このようにうまくできただろうか、と考えたくはないが考えてしまう。
伝統的な水祭りの味わいも失わず、21世紀の時代に合う趣向も見られた。政府が自ら実施するよりは、市民たちに創造する権利を与えた時の方が、カラフルな花が咲くように華々しい成果を目にできる。マンダレーの水祭りでは、水祭りの式典を開催したのみならず、ミャンマー文化[をも表現した]。マンダレーから世界へ飛び立とうと努力している、マンダレーに拠点を置く一部の企業も企画に加わったのを目にした。一部にトラブルもあったが、間に合うように解決できたので、マンダレーの水祭りを称賛したい。マンダレー政府の首脳は自らも賢く、賢い人々と相談することをいとわず、また、民間の事業経営者の様々な提案に耳を傾けて取り組んだことなどにより、現在のような成果を出すことができたと考える。
文化というものは、政府が口うるさく、やれ保存しろ、やれ維持しろと言っても、どうにも生き残らない。また、文化というものは、死に体ではなく、生き生きと変化し続ける。だから、人々が特別に何かするということはなく、自然に残るように道筋を示すことができるなら、最高である。マンダレーの水祭りはそのような道筋を進んでいる。人々の気立ての良さ、ミャンマーらしさを表現しつつ、経費はさほど多くなく、下層、中層、上層の別なく楽しめるように工夫したことがわかる。マンダレーがこの勢いのまま進めていけば、そう遠くない未来にマンダレーの水祭りは国際的に有名になるだろう。
一方で、ヤンゴンはミャンマー中の資本の集まる都市であるが、マンダレーのように「はー」とか「へー」とか言わせるような創意工夫はできなかった。資本が重要か、それともある限りのものを集めて道筋を示すことが重要かは、ヤンゴンとマンダレーが証人となって示してくれている。それは水祭りという、たった3日か4日間だけのことである。国家を改革しようという諸政策となれば、一体どのようなものであるべきか。これは問うに値することだ。水祭りのように目に見えやすいものではない。
マンダレーの水祭りでは、市長が活躍する場面を目にした。そのことは、市長の遂行力のためのみならず、マンダレー管区首相の判断力が優れていたためでもある。市長と競う合う必要はないことを首相はわかっていた。市長が仕事をして、マンダレー市が成功するならば、首相の成功ということにもなるだろう。
マンダレーの水祭りを見ながら、国家行政の視点から改めて考えてみた。ヤンゴンとマンダレーは、ヤンゴンっ子やマンダレーっ子にだけ関することではない。国家全体と関わっている。その2大都市が正しく発展してこそ、ミャンマーの国全体の発展を推し進めることができる。将来の歴代連邦政府は、管区首相を直接任命する際、優秀で、好い人をヤンゴンとマンダレーの首相に任命することが非常に重要である。優秀な人、好い人といっても、ただ普通に優秀であったり好かったりする人ではなく、学識が高く、21世紀にふさわしい考えをもっており、高潔さでは並ぶものがないというような人を選ぶことが大事である。
もう1つある。市長はヤンゴンとマンダレーの2大都市にとって非常に重要な人物なので、市長を国民が直接選び、管区首相だけを大統領が直接任命するというような仕組みの方が良いだろう。そうすれば、たとえ1人が倒れても、もう1人が残ると思われる。将来機会が得られれば、詳しく書くことにしよう。
「自らの市民の利益のみならず、国全体の利益をヤンゴンとマンダレーがもたらしますように」とミャンマーの新年において、祈願せずにはおれない。
( 翻訳者:仲野由貴子 )
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