革命のために5000ルオン余りの金を寄附した人が亡くなる
2017年11月07日付 VietnamPlus 紙
[財政難を解決すべく人民に寄附を呼びかけた]1945年の黄金週に際して、国家へ5,147ルオン[1ルオンはおよそ37.8g]の金(きん)を寄附し、同時にホーおじさんがベトナム民主共和国の独立宣言を起草した場所であるハンガン通り48番地の家の持ち主であった、実業家チン・ヴァン・ボ氏の妻ホアン・ティ・ミン・ホー女史が、11月5日夜、ハノイ市バーディン区ホアンズィエウ通りの私宅で亡くなった。享年104歳だった。
八月革命70周年記念日および9月2日の建国記念日の際[2015年]に運よくホアン・ティ・ミン・ホー女史とお会いすることができた。我々の女史に関する印象は、根からのハノイ人女性の物腰を色濃くもち、高齢にも関わらず明晰で、情け深い人物であった。
その時、健康が弱り口調は明瞭ではなかったが、女史は依然として、前世紀の30-40年の家業、革命への貢献、ハンガン通り48番地の家においてホーおじさんや党中央の同志たちの世話をした日々をはっきりと覚えていた。
ホアン・ティ・ミン・ホー女史は1914年ハノイに生まれ、愛国的儒学者であり有名な商人でもあったホアン・ダオ・フオンの娘であった。
長じて女史は、ハンガン通りにおいて生糸の商いをする家業を引き継いだブルジョアのチン・ヴァン・ボと結婚した。
「私は老いたがまだ国への務めを成し遂げていない、今後子どもの誰かができれば私に代わって国を助けてほしい」という父の言葉を胸に、ホアン・ティ・ミン・ホー女史はいつも、革命に貢献し人民を助ける何かをしたいという願いを抱いていた。
1945年の八月革命が始まり建国間もない頃、実業家チン・ヴァン・ボの家族は革命に多大な貢献をした。
その時点で、[ベトナム民主共和国]政府が始めた黄金週に応じて、ホアン・ティ・ミン・ホー女史の家族は5,147ルオンの金を援助し、同時に、ハノイの実業界にさらに1000両以上を援助するように働きかけた。
1945年の飢饉に際して、女史の家族はお金を持って人民を救助しに行き、路上の飢えた人々のために粥の配給券1000枚を購入した。
女史の家族が住んでいたハンガン通り48番地の家は、臨時政府の発足を準備していた1945年8月24日から9月27日にかけてと政府が発足した当初においても、まさに党中央が活動拠点に選び、ホー・チ・ミンが滞在して仕事をしていた場所であった。
特に、ここでホー・チ・ミン主席は、ベトナム民主共和国の独立宣言を起草した。
女史の家族は、家の2階をまるまるホーおじさんや党中央の同志たちが寝泊まりし仕事をするための場所に充て、秘密と便宜を保証した。
この時、ホアン・ティ・ミン・ホー女史はホーおじさんのために献身的に食事をつくったり世話をしていたが、それがホー・チ・ミン主席とはまったく知らなかった。臨時政府が発足する独立宣言の日が来て、女史の家族はホーおじさんと党中央の同志たちに衣服の大半を支給した。
革命への精一杯の献身に、ホーおじさんは心を打たれ「あなたの家族は革命の恩人である」と述べた。
その後、ハンガン通り48番地の家は「革命遺跡」に公認され、ここにいた頃のホー・チ・ミン主席の活動に関する実物資料を展示している。
ホアン・ティ・ミン・ホー女史の息子チン・カン・チン氏は、革命に目覚めたブルジョア家庭の誇りを共有し、ベトミン(ベトナム独立同盟)に参加して革命のために労力や私財を擲った。
チン・カン・チン氏は、ホアン・ティ・ミン・ホー女史が逝去する前にも、貧しい人々を助けることができるために、子や孫が仕事を頑張り商売を成功させるよう諭していたと、感動して述べた。
しかし、生老病死が自然の法則であることは周知の事実であるが、ホアン・ティ・ミン・ホー女史の死は、深い悲しみをすべての人々にもたらした。革命に多大なる貢献をしたばかりでなく、ホアン・ティ・ミン・ホー女史は、完璧な才徳をもつベトナムで最初の実業家の模範であるとみなされている。
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( 翻訳者:岩切南 )
( 記事ID:3970 )