愛国的実業家ホアン・ティ・ミン・ホーの民族精神の輝き
2017年11月13日付 VietnamPlus 紙
若い頃のチン・ヴァン・ボとホアン・ティ・ミン・ホーの夫婦
愛国的資本家であるチン・ヴァン・ボの配偶者ホアン・ティ・ミン・ホー女史が逝去した。女史がすべての人々に残した最大の遺産は、輝く民族精神、国家への精一杯の献身、気高き革命とホーおじさんを信じ愛する心であり、それらをもつことのできる者は滅多にいない。
20世紀初頭のハノイにおいてかなり有名な一族に属す愛国的儒者の家庭に生まれ、まさに幼い頃から、ホアン・ティ・ミン・ホー女史は父親であるホアン・ダオ・フオンによって、国を愛し、革命を愛する精神を培われた。女史の父、およびチン・ヴァン・ボの父チン・ヴァン・ドゥオンは、共に愛国の理想を持ち、正義を行なう意志を重んじて、フイン・トゥック・カン、ルオン・ヴァン・カンなどの志士が20世紀初めに提唱した「東京義塾」という愛国運動に参加した。
そのため経営事業を打ち立てる過程の中で、ホアン・ティ・ミン・ホー女史と夫のチン・ヴァン・ボはいつも貧しい人や恵まれない人と幸福を分かち合い、また革命に対しては、犠牲をはらい自分自身のものは何も顧みなかった。そのことは、「10ドンを売り上げることができたら7ドンとっておき、残りは貧しい人々を助け功徳を積む。独立を育む必要があるときは、全てを捧げる!」という二人の経営理念に見ることができる。
ベトミン戦線に出会う前、ホアン・ティ・ミン・ホー女史の家族はいつも慈善的な施しをし、貧しい人々を助け、同胞を飢饉から救った。ホアン・ティ・ミン・ホー女史の家族が慈愛に満ち、常に善行を行うのを見て、1944年の終わりに、ベトミン幹部である同志のタ・ヴァン・トゥックとタ・ヴァン・リュウは、女史の家族が革命を助け、支持するよう説得しに行った。その後、クアット・ズイ・ティエン同志もこの問題を提案しに訪れた。彼らの活動についてまだ多くを理解したわけではなかったが、ベトミン幹部の話を聞いただけで、ホアン・ティ・ミン・ホー女史は共感し、チン・ヴァン・ボ氏と話し合ってすぐに援助し、同時に他の人々にベトミンへお金や黄金、食糧を援助するよう働きかけた。国を愛し革命を信じる精神によって、それから女史の家族はいつもベトミン戦線に寄り添い、革命を支援し寄附した。
それからわずか数か月の間に、ホアン・ティ・ミン・ホー女史とチン・ヴァン・ボ氏は、4万インドシナドンを以て3回ベトミン戦線を援助した。その後、更に財政工作に携わる他のベトミン幹部2人が来て働きかけ、女史の家族はベトミンに計8.5万インドシナドンを渡したが、これは212.5両[1両は約37.8g]の金に相当する。八月革命が成功した後、ホアン・ティ・ミン・ホー女史の家族は首都の商工業者運動の先頭に立って、臨時政府の「独立基金」や「黄金週間」に参加し支援した。
1945年9月の「黄金週間」において、女史および姑のファン・ティ・ゴックは金117両分をもって最初に黄金を募金箱に入れた。
女史の高貴な行動に続いて、多くの実業家や首都の人々が積極的に「黄金週間」を支援し、当時困難を極めていた政府の財源に貢献した。ホアン・ティ・ミン・ホー女史の家族が革命のために支援したお金や黄金の総計は黄金5,147両分に上った。
多額の財産を革命の支援に充てたが、ホアン・ティ・ミン・ホー女史は、政権を維持して国が独立し、人民が自由になるための願いをもっているだけであった。それは単に愛国的実業家の責任というだけでなく、何よりも気高い民族精神であり、国の共通の利益のための犠牲であった。特に蜂起前の日々、および国家の独立間もない日々の非常に困難な状況において、女史の家族の貢献は一層かつてないほど意義深いものとなった。
ホアン・ティ・ミン・ホー女史はかつて、「黄金は本当に貴重だが、民や国のためを思うホーおじさんの心は黄金より貴重だ」と語った。
革命に多大な貢献をしただけでなく、ホアン・ティ・ミン・ホー女史とその家族は、光栄にも、ホー・チ・ミン主席が家族のハンガン通り48番地の家に滞在して仕事を行い、ベトナム民主共和国を誕生させた独立宣言を起草したり、臨時政府の発足式に向けて準備したりしていた時に、彼を世話し、保護した。
幾度となく密偵に探りを入れられたが、その人柄と聡明さで、女史は巧みにそれらを欺き、ホーおじさんや党中央常任委員会の同志たちを安全に守った。ホー・チ・ミン主席がこの家にいた時のすべての渉外で、ホアン・ティ・ミン・ホー女史は接待に手抜かりがなかった。
ホーおじさんがバーディン広場で独立宣言を読み上げた1945年9月2日、ホアン・ティ・ミン・ホー女史は初めて、自分がこれまで長い間世話し、保護してきた人物こそがホー・チ・ミン主席であると気付いて感動し、幸福で涙した。
そして全国が抗戦し、首都で最も裕福な実業家の家庭で、名のある店舗をいくつも持ち、工員120人を擁する工場を所有していたが、女史の家族はすべてを擲ち、戦区へ赴くためにホー・チ・ミン主席の全国抗戦を呼びかけに従って「焦土抗戦」を実現した。革命を信じ、ホー・チ・ミン主席を愛する女史の家族の心は、戦区は苦難に満ちた年月だと知っていたが、終始一貫していた。
その後、ハンガン通り48番地の家は、ホアン・ティ・ミン・ホー女史の家族によって国家に捧げられて国家歴史遺跡となり、ホー・チ・ミン主席がここで暮らし仕事を行った日々を記念するものが展示されている。
ホアン・ティ・ミン・ホー女史はさる11月5日夜に享年104歳で逝去したが、このことは女史や女史の家族を敬愛する非常に多くの人に、哀悼の念をもたらした。輝かしい精神による民族への多大な貢献に対する感謝の印として、謹んでお焼香をさせていただく。
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( 翻訳者:岩切南 )
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