ポル・ポトからカンボジアを解放した40年:歴史的岐路
2019年01月03日付 VietnamPlus 紙
カンボジア革命武装勢力とベトナム義勇部隊
ポル・ポトの民族皆殺し体制からカンボジア国土が解放されて40年後(1979年1月7日~2019年1月7日)、カンボジアとベトナムの軍民の戦争における団結精神に関する記憶は、尚も薄らぐことはない。
両民族は苦楽を分かち合い、共に共通の敵に対し戦闘した。ベトナム通信社は、この特別な記念的出来事に際し、民族皆殺し体制に対するベトナムとカンボジア両国の軍隊と人民の団結精神や、ポル・ポト体制からカンボジアを解放したベトナム義勇軍の純粋な支援・援助と解放後のカンボジア再建に関する4つの記事を紹介する。
第1:歴史的岐路
民族皆殺しの惨禍を前にして、カンボジアの愛国的武装勢力[訳注:日本では「カンプチア救国民族統一戦線」として知られる準軍事組織]は、1978年にドンナイ省で結成され(第125団と呼ばれ、後のカンボジア革命武装勢力の前身)、民族皆殺し体制に対する闘争における重要な歴史的岐路を記している。
歴史の刻印される場所
ドンナイ省カムミー県ロンザオ社スォイザム邑を訪ねて第125団の史跡のことを尋ねると、ほとんど誰でも知っている。この651㎡の広さの史跡には、ベトナムとカンボジア両国軍民間の友好・団結の情を表すモニュメントが設置されている。
このモニュメントには前方をまっすぐ見据えた3人の像がある。そのなかに伝統衣装のスカートsampotを身に付けたカンボジア女性の像がある。その左側には頭に軍帽[訳注:ムゥ・タイ・べオと呼ばれる、つばが四方に広がった丸形の帽子]を被り、肩に銃を掛けたベトナム人民軍隊男性士官の像、右側にはカンボジア人士官の像があり、ベトナム軍士官と共にハトを高く掲げる姿勢を取り、団結と平和への熱望を表現している。
「歴史的記念モニュメント―1978年5月12日、フン・セン同志の指揮・指導の下のカンボジア武装勢力の前身」とベトナム語とカンボジア語の2か国語でモニュメントの台座に刻まれた文字は、この史跡の特別な意義を明確に表している。
ドンナイ省文化・スポーツ・観光局の第125団の設立場所の史跡資料によれば、カンボジアの首都のプノンペンにおけるベトナム義勇軍追悼モニュメントと共に、第125団の史跡モニュメントは、両民族間の友好・団結の情と、民族史上かつてなかった民族皆殺しの災難からカンボジア民族を救い出す戦闘において勇敢に犠牲となった戦士・同胞に対する恩義に関する雄弁な歴史的証しである。
40年以上前、カンボジア革命勢力の要請により、ベトナムの党中央軍事委員会及び国防省は第7軍区司令部に対して、ベトナムへ逃れて来たカンボジアの人々を援助する部隊を設立する任務を与えた。1977年9月、第7軍区は、味方を住居に迎え入れて援助する任務をもつカンボジア幹部・戦士受入れ枠の設置を決定した。
対カンボジア革命工作に関する党中央執行委員会と中央軍事委員会常務の路線・方針をもとに、我々はカンボジアの幹部・戦士と愛国者を組織・管理・訓練して革命武装勢力とすることを進めた。このことはカンボジアの革命事業とベトナムとカンボジアの友情にとって有益であった。
ドンナイ省カムミィ県退役軍人会主席のダオ・ゴック・ソン中佐は、かつて直接第125団の徴兵と訓練を行なった人であるが、次のように語った。ベトナムの専門家の援助をえて、1978年5月12日、フン・セン氏(現職のフン・セン首相である)の指揮の下でドンナイ省カムミィ県ロンザオ社スォイザム邑にて、カンプチア救国団結革命武装勢力が結成された。これはカンボジア革命軍の前身部隊となり、カンボジア革命勢力の新たな発展を記し、歴史の必然的要求に応え、人民の闘争における画期的転機をつくりだした。
1978年6月、第7軍区は第125団への軍事訓練を実施した。訓練に参加した勢力は、2個歩兵大隊、3個特攻大隊[訳注:ベトナムにおけるコマンドー部隊]と、偵察、情報、砲兵、工兵及び輸送の各大隊であった。ベトナム人民及び軍隊の無条件の、心からの支えにより、カンボジア救国団結武装勢力は、質・量共に急速に発展していった。組織は1978年12月までには22個大隊にまで拡大し、民族皆殺し体制に対する戦闘任務を受け持つ用意ができた。
1979年1月7日、ベトナム義勇軍の助力も得て、カンボジア救国団結革命武装勢力はプノンペンに進み、カンプチア救国団結戦線および現地の革命勢力と共に、反動的政府を転覆し、民族皆殺し体制からカンボジア人民を解放し、今日まで平和で繁栄・発展するカンボジアの国家建設をしてきた。
解放後、第125団は各省ごとに大隊に分けられ、各省の省隊や政権をつくるための中核勢力となり、基礎となった。
党中央理論評議会委員でホーチミン市歴史科学協会主席を務めるヴォー・ヴァン・セン博士・教授によれば、第125団の誕生は、カンボジア革命の歴史的岐路となる非常に大きな意義を持っている。というのは、当時、ポル・ポトによる虐殺下で、フン・セン氏を含むカンボジアの愛国者たちが唯一の、そして信頼できる脱出路であるベトナムに逃れて来たからである。なぜなら当時のベトナム政府はこの民族皆殺し体制の陰謀、手段、本質を見抜いていたからである。
友情を刻む
誕生の時より、カンボジア救国団結武装勢力はベトナム義勇軍と寄り添って、輝かしい戦功を収め、1979年1月7日の歴史的勝利に貢献し、カンボジア民族に再生をもたらし、民族皆殺し体制の復帰を永遠に阻止した。
第125団設立初期を回想して、ダオ・ゴック・ソン中佐は次のように語った。その頃、ベトナムは、(第125団の)部隊が集合し元の練兵場を利用して訓練するために、基地の一部を第125団に割いた。この区域はゴムの樹林で打ち捨てられてかなり荒廃した旧軍事基地で、木が鬱蒼と生い茂り、住民も多くはなかった。
第125団の本部設置は、安全性と軍事的機密に合致し保障するものであった。カンボジア側は部隊内だけに集中し、すべての外部とのやり取りと必要物資の供給は、ベトナムの部隊が担当した。
訓練された初期の第125団は主に、カンボジア幹部への基礎訓練プログラムによる枠幹部であった。当時のカンボジア革命勢力向けの訓練に参加したチャン・ホン・テ氏(現ホーチミン市在住)は、偵察中隊隊長(特攻第27団)として、カンボジアの部隊にベトナム特攻部隊の技術・戦術を訓練する役目を引き受けていた。
チャン・ホン・テ氏は次のように語った。双方は互いに何を言っているのか理解できなかったので、当初はある程度困難な状況にぶちあたった。というのはすべての意見交換が身振り手振りでせざるをえなかったからである。後に通訳を増強したので訓練の能率も上がった。我々は友人たちに、自身の経験や実戦から知る全てを訓練した。なぜなら彼らは帰国して民族皆殺し体制から故郷を解放するべく、強い希望を持っていたからだ。
当時のカンボジア愛国者へのベトナムの感情について、ダオ・ゴック・ソン中佐は、その頃、ベトナムが経済的に非常に多くの困難に直面していたことを思い起した。ベトナム軍人は毎日混ぜご飯ばかりを食べねばならなかったが、それでもなお、第125団に物資的・精神的にすべてを傾けて援助を行なったという。
カンボジアの部隊は周囲の各部隊から米、食料、追加物資の援助を受けることができた。我々は友人に、カンボジア臨時革命政府の政策・方針・路線などの政治を訓練し、集中して主に軍事知識、武装闘争、戦闘技能、軍事指揮を学習させた。そのなかで軍事指揮に関する知識はきわめて重要であった。
ヴォー・ヴァン・セン博士・教授は、カンボジアの愛国者たちを支援して第125団を設立したことはベトナム共産党の賢明な決定だったと考えている。1975~1978年の段階を通じて、平和を維持しながら国境を守るため、ベトナムはポル・ポト政権の敵対的行動を前に柔軟な対外政策をとってきた。しかしながら我々はポル・ポト体制の本質もまた見えていたので、真のカンボジア愛国革命主義者たちである第125団を支持した。これは歴史的決定であり、両国人民間の友情を表している。
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( 翻訳者:小泉友佑 )
( 記事ID:4713 )