北方国境戦争40周年:勝利と歴史的教訓
2019年02月15日付 VietnamPlus 紙
1979年2月にカオバン省ホアアン県においてベトナムの部隊によって鹵獲された敵の武器
1979年2月17日、以前から立てていた計画を実行して、中国当局は、フォントー(ライチャウ省)からモンカイ(クアンニン省)まで北方国境の全線にわたってベトナム領土を侵犯する大規模な進攻を開始した。
正当な自衛権を行使して、勇敢なベトナムの軍隊と人民は激しく戦闘し、反撃した。
多大な損害を受けたにもかかわらず、当初の目的を達することができず、また進攻の不義の性質により世界の世論から強く非難され、中国側は1979年3月18日に全軍を中国に撤退させた。
この事件の40周年記念に際して、ベトナム通信社は、ベトナム歴史科学協会会員のチャン・ヒュウ・フイ博士の寄稿「1979年の祖国北方国境防衛戦闘 ─勝利と歴史的教訓」を謹んで紹介する。
中国側の不義の戦争
中国はベトナムの隣国である。革命闘争過程において、両国の人民は密接に結び付き、団結し、互いに助け合ってきた。しかしベトナム人民の救国抗米抗戦が勝利した後(1975年)、両国の関係は次第に悪化した。
1979年初め、ベトナム人民軍隊が進攻してポル・ポト反動集団を打倒し、カンボジア人民がジェノサイドから脱して国の復興を始めるのを手助けした時、中国政府は他の幾つかの国とともに、カンボジア領土でのベトナム義勇軍の出現を歪曲して宣伝するのに努めた。
彼らの目的は、インドシナ半島での彼らの民族的利益を押し付けるために、ベトナム革命に反対し、各反動勢力の後ろ盾になろうと望むことであった。
一方、この時の国際環境は、中ソの軋轢が緊張度を高め、米中関係は引き続き改善していて、両者ともにソ連を「一番の敵」と見なしている時で、きわめて複雑な変化が生じていた。
小規模な軍事的挑発を何度も引き起こした後、1979年2月17日から、中国側は60万人の軍隊、500両以上の戦車・装甲車、数千門の各種大砲を動員して、フォントー(ライチャウ省)からモンカイ(クアンニン省)までの北方国境全域にわたってベトナム領土を侵犯する進攻を始めた。そのなかで主要な進攻方面はカオバン─ランソンで、重要な進攻方面はラオカイ(当時のホアンリエンソン省)、共同[作戦]方面はフォントー(ライチャウ省)、勢力を吸収する陽動[作戦]方面はクアンニン、ハートゥエンであった。
ベトナム北方国境への進攻を始める時、中国当局は次のような基本的目標に向かっていた。
第一に、ベトナムに義勇軍をカンボジアから撤退させ、ポル・ポト軍が勢力を回復し、残っている根拠地を維持し、樹立されたばかりのカンボジア革命政権に引き続き抵抗する条件をつくる。
第二に、中国が「4つの現代化(農業、工業、軍隊、科学・技術)」を実現するために、ベトナム革命に反対している幾つかの大国(アメリカを含む)の支持を取り付ける。
第三に、1975年に侵略的アメリカ帝国主義に勝利した後、国際的な場でのベトナムの軍事的・政治的威信をおとしめ、経済・国防の潜在力を破壊し、暴動を扇動する。
第四に、東南アジア地域の各国に対し力を誇示し、同時に今後の軍事的冒険を準備するためにソ連と国際世論の反応をみる。
中国側の司令部は主観的な認識をしていた。現在の圧倒的に優勢をしめる兵力・武器(歩兵数は3.5倍近く、砲兵数は5.7倍近く、戦車・装甲車数は9.8倍近くなど)をもって、中国軍は速やかにベトナムの国境防衛システムを粉砕できるであろう。他方、ベトナムの軍隊の大部分はカンボジアにて国際的任務を遂行中で、国境戦線への増援部隊は困難であろうと。
その認識から中国側の司令部は、重要な幾つかの町・地区を速やかに占領し、その後に具体的情勢・条件によってベトナムの領内深くに展開することもありうるとの計画を策定した。
進攻の各方面において、中国軍は常に正面攻撃と迂回・突入・包囲・分散とを結合し、歩兵・戦車・装甲車・砲兵とが協調し、きわめて残忍に全面的徹底破壊をおこなった。しかしながら実際には、中国軍はベトナム側からの激しい反撃にあった。
ベトナム人民の正当な自衛権
救国抗米抗戦に勝利した(1975年)直後、ベトナムの党・国家の多数の高級代表団(そのなかにはベトナム共産党書記長のレ・ズアンを含む)が中国を訪問し、2つの救国抗戦における物心両面にわたる、政治的にも多大な支持・援助に関して中国の党・国家・人民の深い恩をベトナムは常に忘れないでいることを確認した。ベトナム側は常に中国と善隣・友好・協力関係を維持することを重視してきた。
1978年末、1979年初、両国関係が緊張し、国境で小さな武力衝突が連続して発生した時、ベトナム側は、平等と独立・主権の尊重、領土の保全を基礎に平和的手段によってあらゆる矛盾・係争を共に交渉して解決するよう中国政府に呼びかけ続けた。
その善意に対して、中国側は反ベトナム路線を進める方針を採り、約束していた援助をすべて打ち切り、交渉時に無理難題(ベトナムはカンボジアから義勇軍を撤退し、ベトナム南部の中国系ベトナム人の権利を保障する独自の規定をもうける等々)をふっかけてきた。
他方、中国政府は引き続き「ベトナムはカンボジアを侵略した」「ベトナムは中国南方辺境で土地を占領し、騒乱をおこしている」と誣告宣伝を推し進め、国内外の世論を惑わそうとし、そこからふてぶてしくも「ベトナムに教訓を教える」と公言した。
戦争の発生を予想して、1978年末にベトナムの党中央と政府は、急いで部隊を増強し北方国境の防衛線を強化した。
中国の大規模な進攻を前にして、1979年2月17日、ベトナム政府は、中国当局が人民の利益に逆行し両国人民間の友好団結の情を甚だしく破壊していると明確に宣言し、同時にベトナムの軍隊と人民は、反撃するために自己の正当な自衛権を行使する以外に道はないとした。
戦争の初期、ベトナム側は戦略的予備勢力を早期決戦に集中させず、また南方の機動主力勢力を直ぐに引き抜く方針をとらず、地方の人民戦争の総合力を発揮させ、第1軍区、第2軍区を主とし、後方からの勢力を一部補充して増強した現地勢力を使用した。
戦闘が始まって10日間、第1軍区、第2軍区の武装勢力と北方国境各省のベトナム人民はきわめて勇敢に戦闘し、多数の兵力を殲滅し、多数の戦闘手段を破壊し、中国軍の「迅速攻撃、迅速占領」の意図を遅らせ、相手に戦略的予備勢力を投入させた。兵力数、武器・技術的装備数の優位により、中国軍は一歩ずつベトナム領内に深く入り、次々と重要な地区・町を占領した。ラオカイは2月19日、カオバンは2月24日、カムドゥオンは2月25日、ランソンは3月5日など。
その緊迫した情勢を前に、ベトナム政府は、強力な主力師団を使用し、混成部隊の大規模な反攻作戦を始める用意をする決定をした。その方針により、1979年3月初め、ベトナムの党中央軍事委員会と国防省は、カンボジアで国際的任務を遂行中の第2軍団に迅速に全勢力を北方に移動・集結する命令を下し、同時に国境戦線において第5軍団を設立する決定を下した(1979年3月2日)(第3、第338、第327、第337の4個歩兵師団と幾つかの他の保障・技術部隊)。
第1軍団の主力部隊、防空・空軍と他の技術部隊は、戦闘に参加する用意をした。全国の総合力を発揮するため、3月4日、ベトナム国会常務委員会は祖国防衛勢力総動員の決定を下した。戦略作戦計画が補充・審議・採択された。
この時、甚大な損害をうけたにもかかわらず基本的目標を達成することができず、国際世論から強く非難されて、1979年3月5日、中国政府は軍隊を中国に撤退すると発表した。平和への善意と両国間の友好関係回復の期待を示すために、ベトナムの党中央と政府は北方国境地方の武装勢力と人民に反攻作戦を停止し、中国軍が撤退できるようにするとの命令を下した。1979年3月18日までに、中国はベトナムからの軍隊の撤退を終えた。
勝利と歴史的教訓
ベトナム人民の北方国境防衛戦闘は、約丸1か月間(1979年2月17日~1979年3月18日)続いたが、勝利の意義はきわめて大きく、基本的な幾つかの面が示されている。
ベトナムの軍隊と人民は、6万2500人の中国軍を戦闘の輪から除き、550台の軍用車(そのうち220台は戦車・装甲車)を射撃・破壊し、115門の大砲・重火器を破壊し、多数の武器・軍用品などを鹵獲し、相手を早期に撤退させ、それを通して、インドシナ半島に大国の利益を押し付けようと望んだ中国当局者の意図を完全に失敗させた。
この戦闘は再度、独立・主権を防衛し祖国の領土を保全するために、あらゆる困難や試練を断乎として乗り越えるベトナム人民の堅固な意志と力を確認した。というのはこの時、ベトナムは抗米抗戦を終えて(1975年)まもなくでありながら、西南国境防衛戦争を終えてカンボジア人民を助ける国際的任務を遂行し、ポル・ポトのジェノサイド体制を打倒し、国の復興をおこない、経済はアメリカの制裁によってきわめて多くの困難を抱えていたからである。
ベトナム人民の北方国境防衛戦闘は、ベトナムの党中央軍事委員会、政治局の正しい政治・軍事路線、優れた戦略的指導を確認するのに貢献した。特に情勢を把握して相手の行動可能性を正しく評価し、その上で時期を失することなく各武装勢力や人民が各方面での用意・対処を準備するよう指導・指揮し、全人民の大団結を増強・強化し、堅固な人民戦争布陣を構築することにおいて。
戦争の処理・指導実践をとおして、ベトナムの党中央と政府は常に自己の正当な自衛権について確認し、主権を侵犯するあらゆる進攻に断乎として反撃するが、同時に、ベトナムと中国の両民族間の良好な関係をつくるために、常に包容の心、平和の願い、衝突を打ち切る望みを明らかに示しており、地域と世界の平和的・安定的環境を維持するのに貢献している。
戦争で勝利を獲得するために、ベトナム人民も多大の損失を被った。3万人以上の幹部・戦士が負傷・死亡した。数万人の民間人が亡くなった。カオバン、ランソン、カムドゥオン、ラオカイの各市はほとんど完全に破壊された。合計で320の社、735の学校、41の農場、81の企業・採掘坑、38の伐採地が粉砕された。40万頭の家畜が殺されたり、奪われた。国境6省に住む総数350万人のうちの約50%が住宅、財産、生計手段を失った。
1979年北方国境防衛戦闘は特別な歴史的事件であり、ベトナム革命に多くの貴重な教訓を残した。
一つは、革命的警戒精神を高く掲げ、情勢をしっかりと把握し、関係する各方面の陰謀と行動、特に大国の動きを正確に予測し、その基礎の上に全面的準備をし、あらゆる状況においても不意打ちをくらわないようにする。
二つは、独立・自主・自強の路線をしっかり保ち、政治・軍事闘争と外交闘争を緊密に結合し、国内の総合力を発揮しながら革命の正義性を高く掲げるようにし、もって国際的支持・同情をえて、敵対勢力が孤立化をはかる歪曲をさせないようにする。
三つは、堅固な防御地区を建設し、その基礎の上で地方の人民戦争の力、特に現地での武装勢力(軍区の主力部隊、省・県の地方部隊、ゲリラ民兵)の力を発揮し、全国の後方の力と結合し、最初の時からあらゆる外部の進攻への効果的な反撃を用意する「鋼鉄の長城」をつくる。
四つは、「小をもって大を制し、少をもって多に立ち向かう」というベトナムの伝統的軍事手法と現代的軍事手法(正規の作戦方式)を創造的に運用し、同時に前代の父祖の「大義をもって凶残に勝ち、至仁をもって強暴にかえる」の人文主義的思想を開拓・発揮することを知り、ホー・チ・ミン時代におけるベトナムの革命的英雄主義と結合する。
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( 翻訳者:メディア翻訳ベトナム語班 )
( 記事ID:4739 )