枯葉剤被害者のための闘争における解放通信社記者の刻印【前編】
2020年10月12日付 VietnamPlus 紙
枯れ葉剤の各後遺症に関してパリで話をしているチャン・トー・ガーさん。
枯れ葉剤の各後遺症に関してパリで話をしているチャン・トー・ガーさん。

 10年以上に渡り、チャン・トゥ・ガーさんは約500万人のベトナム枯葉剤被害者のために正義を長い法廷闘争で追及してきた。
 チャン・トゥ・ガーさんは1942年に生まれ、解放通信社の元記者で、ベトナム戦争中、アメリカ軍により使用された枯葉剤の被害を受けた。
 1993年にフランスに定住した後、2014年5月に、彼女は、彼女を含め何百万人ものベトナム人に枯葉剤の被害を与えた有毒化学物質を軍に供給したアメリカの各化学会社を相手取り正式に訴えた。
 これは、苦難の闘いであり、健康面でも年齢的にも試練となることは分かっていたが、彼女は彼女の人生でこれが最後の献身であると考えた。
 解放通信社の設立60年を記念するのを機に(1960年10月12日〜2020年10月12日)、フランス駐在のベトナム通信社特派員グループは、彼女の解放通信社の記者として働いていた頃の決して忘れられない記憶やベトナムの枯れ葉剤被害者のための正義を求める決意について話を聞かせてもらった。

   解放通信社記者の刻印

 チャン・トゥ・ガーは24歳の時に偶然、解放通信社の記者となった。
 1966年の初め、彼女は、南部の日増しに拡大する解放区で教育を行うために南部に行く北部の教員団と共にチュオンソン山脈を越える任務を引き受けた。
 4か月後、団が南部中央局の本拠地に到着した頃、アメリカ軍が戦争に直接参加し、戦局は変化していた。
 アメリカ軍の航空機は各解放区の破壊を強化し、教える対象である生徒・児童の数が少なくなった。教員団は戦区の様々な機関にバラバラに配置転換された。
 1966年5月、トー・ガーさんは解放通信社記者に派遣された。解放通信社は、彼女が南部解放抗[米]戦に自分の力を捧げるための最初の仕事場だった。
 彼女は、「私には、最初の部署の長であったヴォー・ニャン・リー氏の姿が記憶に刻み込まれています。彼からの最初の教訓は『多くを話さず、よく聞き考える』でした。これは今でも私の生きる上でのモットーになっています」と心の内を打ち明けてくれた。 
 ジャーナリズムの業務の担当にはならず、トー・ガーさんは、資料管理の部署に配属された。毎日の業務はとてもシンプルだった。各ニュースを書き写すだけだった。そのため、彼女は少し悲しく感じたがそれでも、米の運搬、家の建設、井戸掘り、隠れるためのトンネル掘り、食事作りなど委ねられた他の業務もすべて完璧にこなした。
 生みの母であり、南部ベトナム女性解放連合会の会長でもあるグエン・ティ・トゥーさん(グエン・ティ・トゥーさんは、アメリカ帝国に対する抵抗戦争の最中に犠牲になった烈士である)のもとを尋ねることが許可された時、彼女の日常は変わった。
 「母のそばで過ごした2か月近い間、母は、新聞記事を書く経験に関して私を導いてくれました。サイゴン─ザーディン政治宣伝委員会に毎日記事を書くことを私に許可してくれました」と彼女は語った。
 [南部]中央局の通信社機関に戻ってから、彼女は、民間医療機関に派遣され、見習いの記者となった。戦争中の人間の勇敢な模範も、果てしない苦痛も目の当たりにし、彼女は深く激しくわき起こる感情の中でとてもたくさんの記事を書く訓練を積んだ。
 トー・ガーさんに大きなターニングポイントが訪れたのは、1967年9月に開催された第2回目の、ベトナム南部を解放する各武装勢力の米軍を滅ぼす勇士、競争戦士、英雄大会に関する記事を書き、情報を伝える解放通信社の記者団に参加することができた時である。
 道のりはとても長く、[記者]団は、米国軍が、解放軍が隠れた場所を破壊するために枯れ葉剤を撒いた古い森林の地域を通り過ぎなければならなかった。 
 

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( 翻訳者:渡辺大智 )
( 記事ID:5539 )