枯葉剤被害者のための闘争における解放通信社記者の刻印【後編】
2020年10月12日付 VietnamPlus 紙
枯れ葉剤被害者をケアする(写真:グエン・トゥイー/ベトナム通信社)
枯葉剤による破壊により、落ち葉が厚いカーペットのようになり、雨季になるとそこは膝までつかる沼地と化した。彼女は「枯葉剤の中に浸かっているなどとは考えもせず、そこを無邪気に濡れて歩きました」と思い出す。
一か月間、人里離れた気候が厳しく薄暗い森林を歩き通したことで、深刻な悪い影響が出てきた。団のほとんどの人が病に倒れるか、もしくは、体力が衰えた。帰り道の途中、トー・ガーさんは、敵の爆弾によって犠牲になった多くの仲間を直接目撃し、埋葬した。その中には、ベテラン写真家で解放通信社小委員会副委員長のブイ・ディン・トゥイー氏もいた。
機関に戻り、彼女は、少数民族パコ族の女性英雄、カン・リックさんについて記事を書くことに専念した。カン・リックさんは、霜や日差しにさらされながら昼夜12日間連続で身体を横たえて、敵のあらゆる活動を観察し、敵の飛行場を破壊する計画を立てた人だ。
3回繰り返し修正し、解放通信記者として彼女が書いた最初の記事が、部署の長であったヴォー・ニャン・リー氏により承認され無線でハノイに送信された。それからは、彼女は、北部に送るためのニュースや記事を書く業務を正式に担当することになった。
テト攻勢が始まり、迅速に正確な情報を伝えられるよう、各記者は前線の各戦闘組織に派遣された。トー・ガーさんは妊娠していたため、後方の根拠地に派遣され、戦闘に出た人の代わりに業務を行った。
情報は次々と来た。戦勝あり、失敗ありだった。しかし、抗戦のための士気は上がり続けた。
解放通信社の多くの記者が、前線で犠牲になった。彼女は、胸が詰まる思いで振り返る。「[戦場に]行く時、各友人は、自分の思い出になる品を入れた重機関銃の爆薬箱を私に保管していてほしいと預けました。このような箱を友人の家族に渡す度に、私の心は切られるように痛かったです」。
枯れ葉剤の痛みは、確実に彼女の人生に入り込んできた。1968年6月末に産まれた長女は、ファロー四徴症と呼ばれる先天性の心臓病だった。酸素不足のために、肌の色が紫色に変わり、頻繁に呼吸困難に陥る。
彼女は「私は既に幾晩も、私が何をしたからといって子供がこんなに大きな不幸にならなければならないのか、と自問し悩みました」と声を詰まらせた。多くの困難を乗り越え、彼女はか弱く小さい娘の世話をしながら、ジャーナリズムの研修に参加し、ニュース担当部署の記者としての任務を全うする努力をしていた。
南ベトナム共和国臨時革命政府が樹立した大会の後、1969年6月、彼女は、長女が病気の治療を受け命が救われることを願い、スイスに本部を置くテールデゾム[Terre des Hommes]という人道組織に長女を連れて行き、預けた。だが、長女はあまりにも弱っており、その数か月後に亡くなった。
彼女は「どうしてこうならなければならなかったのか?なぜ私の子供は難病を患わなければならず、17か月しか生きることができなかったのか?40年後、ようやくこの質問への答えが得られました。まさにアメリカ[軍]の航空機が南部の森林のあちこちに散布した枯れ葉剤が、私の子供を殺したのです」と言い切った。
記者としての人生も1969年に終わった。トー・ガーさんは、解放通信社を離れ、教育小委員会の研究幹部の仕事に就いた。
彼女は、「記者の仕事をした3年あまりの期間は長くはありませんが、とても鍛えられ、今のような根性が備わりました」と語った。彼女は、森と森に挟まれた不毛の原野に行く度に野生の花を摘んで花輪を作り、仲間の同業者を追悼することを決して忘れない。
彼女はこう強調する。「友人達は、祖国のために自分の短い人生を生き終えました。私達や、まだ生きている人達は、[その友人達と既に]一緒に歩いた道に続く道を更に歩いて進むのです。このことは決して変わりません」と強調した。
この決意は、この10年間あまりの間ずっと彼女が抱き続けてきたもので、米国軍が[ベトナム]戦争中使用した枯れ葉剤を生産した会社を相手取り、ベトナムの500万人近くの枯れ葉剤被害者の正義のための長い法廷闘争を追究し続ける彼女の更なるエネルギーとなっている。
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( 翻訳者:渡辺大智 )
( 記事ID:5540 )