奴隷教育とは何か
2022年04月25日付 その他 - BBCビルマ語ニュース 紙
田舎の自然で子供たちを魅了
田舎の自然で子供たちを魅了

大英帝国の思想を宣伝するものとして編集出版されたミャンマー文学集は、1988年以降、軍事政権の愛国心高揚のためのシリーズとして再発行された。


教科書とミャンマー教育カリキュラムにおける政治
ボーボー 2020/6/3

ミャンマーの教育においてはカリキュラムというものがイギリスの占領後に登場してきた、と歴史学者タントゥン博士の教科書の歴史という論文に述べられている。以前の僧院教育ではビルマ文字の基礎が終わるとすぐ十一経と三宝への称賛などの仏典を教えるのみであった。

そのため、第一次英緬戦争後にタニンダーリーとヤカイン、第二次英緬戦争後にバゴー地域などに宣教師とともに国立学校を開校し、西洋式の教育を開始した際には、教える教科に関して批判や反発に遭った。

ミャンマーでは、教育について仏教僧が責任を持って教えていた状況から、在家と外国人が取って代わってきたことのほか、仏教が宗教のみならず世俗教育とも初めて触れるようにもなった。

無用なもの

数学、地理、解剖学といった学問を、涅槃に至る過程を遮る無用なものであるといい、代々教育をおこなってきた仏教僧は反対した。この反対はミャンマー全土にまで広がった。
そのため、「1+1=2である、海には島があるというような話、太陽、月、星のまわりを地球が回っている、といった考え方は利益のないことである。数学、地理、英語といった科目は無用な学問の知識である」とセインパン新僧院の僧正がターダナーバイン(訳註:王朝時代に王が任命した僧伽の長。植民地時代の1938年、タウングィン師の死去により僧伽主という地位は廃止された)であったタウングィン師のもとに1907年に手紙を書いた。

科学的知識に対する見解は、四大州(訳注:仏教的宇宙観で東西南北に一つずつあると考えられている大陸)のある宇宙観を基礎とするミャンマー仏教的見解とかけ離れているため、このような反対が生じてきたのだ。ティーボー王が捕らえられ連行されたばかりの時、マンダレー市で外国から戻ってきた元政府高官と伝統的な考え方の持ち主と間の地球平面論争において、ロンドンから戻ってきたキンウンミンジーが平らだと言って決定したことがあるということが、シュエボー・ミーミージーの『シュエイェーミンサン・エッセイ集』に掲載されていた。植民地時代、僧院では地理の代わりにパーリ語を授業科目として学ぶこともあったとタントゥン博士が述べた。

この西洋式教育反対のほかに、キリスト教宣教学校で新約聖書を教えることや賛美歌を歌わせることなどのせいで子どもたちが改宗することを憂慮する親たちも出てきた。そのため、モーラミャインにはターダナダラという名前の仏教組織が設立したシンマハーブッダゴーサ学校、タトン市のシンアラハン学校といった仏教学校がキリスト教の宣教学校と競うように19世紀末に建設された。その後、第一次学生ストライキが終わり、民族教育評議会が学校を建設する際にもビルマ語、ミャンマー史を優先するカリキュラムを制定した。

ミャンマーを軽んじるミャンマー教科書

西洋式教育がミャンマーに到来した際に、支配者であるイギリス人は彼らの意向に沿うプロパガンダを教科書経由で拡大した。地理、歴史およびビルマ語の教科書から主義主張を広め、ミャンマー国王の統治が良くなかったので、冷酷で抑圧的だったので、イギリスが占領せざるを得なかったといった記述が含まれていた。これらの教科書はイギリス政府高官と宣教師が執筆しているものが多かった。

このようにミャンマー国王を冒涜した教科書をマンダレー王宮に持ってきたキリスト教聖職者を国外追放したということが、フィールディング・ハロルドの『マンダレー王宮物語』(訳者注:原題Burmese Palace Tales)に書かれていた。「アシンナンマドーパヤーと歴史の読みもの」ははユーモアあふれる話のように書かれ、国王と王妃の悪口を描かれた当事者が読み腹を立てた話として書いたものであった。どの王の治世かということを物語に正確には書かなかったが、ティーボー王の治世に王族を殺したことについて植民地時代に出版されたミャンマーの歴史の本で非難すべきこととして書かれた。

そしてこのように、教科書には大英帝国が日の沈まぬ帝国であること、イギリス人は法を順守するのと同様、人々は行く先々で自由に居住する権利を皆が手に入れようと努力したという記述が含まれていた。また、地理では大英帝国の裕福な様子、軍事力の強大な様子について力を入れて教えていた。「ジョージ王(訳者注:ジョージ5世を指している)を敬い讃える叙情詩」を学校で唱え、教えなければならない時代だった。

ミャンマーをイギリスが占領した後、他の植民地と同じようにイギリス行政を高く評価する中間の新社会階層を生み出すため努力したときに、教科書が利用されてきたことははっきりしている。

帝国愛着委員会

イギリスが優れていること、ミャンマーが時代遅れであることを教科書で教えてきたように、1914年からはじまった第一次世界大戦の間にもミャンマー王朝時代に書かれた詩を使い、大英帝国を深く敬愛させるため策を練ってきた。政府に忠実であるように、愛国心と自然の素晴らしさを詠んだ文章を選び、『ミャンマー文学集』として出版するために帝国愛着委員会を結成し、実行してきた。

この文学集を基本として教科書を書くことを意図していたように、文学集の編者の一員であったヤンゴン大学学長ウー・ペーマウンティンと彼の教え子ゾージーやミントゥーウンなどの学者は、植民地時代と独立後に編集したミャンマー教科書の中にも愛国心と自然の素晴らしさを書いた詩を加えたことがわかる。ミャンマーの隣国であるタイの教科書にも地方を基礎とする愛国心を増幅させる記述が含まれている、とタイ史専門家ワーシッティチャインヤカンの『大タイ主義を促進するタイ教科書の歴史』で述べられている。

大英帝国のプロパガンダを広めるものとして編集出版されてきたミャンマー文学集は、1988年後半、軍事政権の愛国心高揚シリーズとして再び出版された。

人々の勝利の声と教科書の政治

日本占領時代に英語の代わりに日本語を教えなければならなくなった後、独立を獲得し、その後はビルマ語をほとんどの科目で用いて教育を実施しようとする動きがでてきた。公立学校では5年生から初めて英語を教えることと教科書をビルマ語に翻訳して教えることも、独立後1980年代頃まで見受けられた。

この時代の特徴は、国のリーダーであるウー・ヌ首相が書いた演劇脚本を学校で使用すると認定したことである。共産主義反乱への非難を書いた『人々の勝利の声』を学校で使用すると認定しただけではなく、アメリカのハリウッドで映画を撮影しミャンマーのいたるところで上映した。ウー・ヌが翻訳した『人を動かす』(訳者注:原題How to Win Friends and Influence People, 原著者Dale Carnegie)も学校で使用されてきた。また、作家タードゥの国軍を賞賛する『軍隊の中のミャッコーコー』という小説に政府が文学賞を授与し、学校で使用することを認定した。その時代の学校教育カリキュラムとしてはたびたび外部の作家の作品を(教科書に)認定しており、認定教科書を執筆できる人は裕福になったものだったとウー・タイットゥン(タドートゥン)の「教科書に見られる教養文学」という論文に述べられていた。

宗教に力を入れていたウー・ヌ時代の1954年に、仏教と他の宗教のことを学校カリキュラムに取り入れようとしたが、仏教僧侶の反対に遭った。聖書とコーランを教えないようにという反対のためにウー・ヌは僧侶に対して政治と宗教を分けて考えるようラジオで演説したことが、ロンドン大学でアジアと戦史を専門にするマイケル・チャーニー教授の『近現代ミャンマー史』(訳者注:原題A History of Modern Burma)に述べられている。ウー・ヌの多宗教教育計画は成功しなかったが、公立学校では仏教の祈祷文を唱えなければならない習慣が残ったままである。

国外からカリキュラムに沿った本を購入しなければならなかったので反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)時代に4年間で400万チャット程度書籍代がかかった年があったということもウー・タイットゥンが述べている。ウー・ヌが設立したサーペーベイマン(文学の殿堂)と呼ばれる翻訳文学協会が知識人の本の学校使用を認定することもみられるようになり、1962年の後半には基礎教育課程の段階で、政府が執筆し認定した学校教科書のみを使用する許可が出された。それまで私立学校では別のカリキュラム認定が存在しており、7年生および大学入学試験のような政府実施の試験のためだけに政府認定のカリキュラムを教えていたのであった。

中央が統制するカリキュラム

革命評議会時代、1964年後半に宣教学校および私立学校が国有化されたあと、公立学校だけが残った。教授言語が英語である学校、英緬バイリンガル学校といったカリキュラムの差異も消滅していった。公立学校がカリキュラムの基準を満たしていないこと、教師の質の低下ということが一度に起こったせいで、ミャンマーの学生の学力が下降していったという批判が継続していた。

社会主義時代だったので科学を優先し、高等教育でも医学、工学といった仕事に就くための技能や知識を教えるため大学で点数による入学制度を使い始めた。伝統的に教えてきた、死んだネズミを元手に豊かになったことというような説話も、資本主義を推進するといって排除した。現代作家の作品を学校教材として抜粋して教えてきた。歴史についても、資本主義的議会制度のせいで政治が崩壊したため国軍が責任を持ち権力を取らねばならなかったと教えた。ミャンマー式社会主義路線と一致する少数民族教科書も認定していたという。

1988年後半には、タキンコードーフマインとアウンサン将軍の記述をカリキュラムの中に残していたが、学校では教えず、また試験にも出さないようになっていた。タイと対立する状況だったため、アユタヤ国のことをカリキュラム認定に加えたようなこともあった。

古い時代と新しい時代

ミャンマーのカリキュラムは、200年近くもの間に変化もしてきたが同じものもあった。他国のように伝統を若者に受け継ぐとともに、新しい時代の知識をも広めた。そのため封建領主時代の散文や詩を教訓として教えたように、保健と生物学に関連する科目や工業技術も紹介した。

これもコンバウン時代後期、西洋の知識に宮廷学者が触れたのちに、翻訳、紹介してきた伝統によるものである。このようにミャンマー側からの翻訳は、西洋人からのカリキュラム導入と同時期におこった。

そのため、チャールズ・レインとメッカヤー王子が編集した英緬辞書は、英語学習にミャンマー人がどれだけ力を注いできたかということを200年にわたって証明してきたものであり、イギリス大百科事典をバジードー王の治世からインワ宮廷で翻訳し読むことがあったと、マイケル・チャーニーの『パワフルラーニング:ミャンマー最後の王朝における仏教徒知識階級と王位』(訳者注:原題Powerful Learning. Buddhist Literati and the Throne in Burma's Last Dynasty, 1752-1885)で述べられている。

このような紹介をする場合、(良かれと思っても)罪となってしまうこともある。1871年にヨー卿ウー・ポーフラインは、翻訳した「化学の書」に「ビールはセンシンレン(訳者注:薬草の一種。とても苦い)のようだ」という記述をしたせいで6か月投獄されたように、専制君主制度に反対する『ヤーザダマティンガハ文書』(訳者注:ティーボー王を諫める文書として有名。経済学的な視点で考察するとこの国は自分のものと考える専制君主制度とは相いれない文書であった)によっても地位をはく奪された。国を発展させるために、大人たちにとって様々な(新たな)知識の紹介が必要であるように、若者らにとっても優れたカリキュラムが必要である。

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( 翻訳者:M.I )
( 記事ID:6327 )