六本瓶坊主(2)

2014年01月06日付 The Voice 紙
 その村に小屋を五棟建てることとなり、必要な分の材木と帆布を支給した。支給してから時間が経っていたので、建設は終わっているだろうと思っていた。
 船の上から村を眺めると、帆布の小屋が並んでいた。建ててある小屋は整然としていて、見ていて気持ちが良かった。そのため、住宅支援をしている僕たちボランティアは嬉しく思った。
 丘に上陸してみると、五棟のうち一棟がまだ帆布で囲われていなかった。そのため、なぜこの小屋だけ囲いがないのかと尋ねると、板と帆布が足りないのです、と村人たちが口々に答えた。
 僕たちは小屋の規格を定め、一棟ごとに必要な帆布と板の量を算出し、それに基づいて支給したので、何かが不足するはずはなかった。事態を把握するため、さらに質問を重ねると、僕たちの事務所と村の工事現場との間で、一部の木材と帆布の一部がなくなっているを失ったことが判明した。運搬の責任者を呼び付けようにもたところ、その責任者はガナン山に出かけていて、今は不在だという。僕たちは、村の中を見て回り、写真を撮った。責任者が村に帰ってきたら僕たちの事務所に来る派遣するよう村人に言いつけて、他の村へと向かった。
 船のエンジンがモーターボートが故障して、僕がは(その?別の?)船のボートの中で眠っていると、た。その時、ヨー族の男がやってきた。先程のカンバラタピンチャウン村の運搬の責任者を連れて来たと言っている。船を係留し、責任者と面会した。資材はどこへやったんだ?と尋ねた。船が重量オーバーになるためが使えず、町に置いたままになっているという回答だった。
 しかし実際は、他の資材は何度も運び、んだのに、帆布一巻枚分だけ重量オーバーだというのはありえない。だけ運んでいないのは船が使えなかったからだ、などというのは全て出たらめな言い訳だ。仮に、本当に船が重くて持って行けずに出せなかったから運ばなかったのだとしても、運搬係は何度も町へ出かけ、資材を取りに行っている。だから、必ずいずれかの日には一日に一回は運び出すことができたはずのだ。このことから、帆布一枚と、小屋一棟分の板を横流ししたということがはっきりした。
 横流ししたからと言って警察に通報すれば、村人たちが留置所に入れられてしまう。帆布一巻きのために村人を留置所にぶち込むなどということは僕にはできない。だから、泥棒かいることには気づかなかったふりをして、「町に置いてあるなら、なるべく早く取りに行って、なるべく早く小屋を作ってくれ。来週見に来るぞ。」と言っておいた。
 かつては田舎の村人といえば本当に誠実だった。田舎の村人の誠実さは詩にも詠まれた。歌にも歌われた。どこでも田舎の村人は偽らないと言われていた。今では田舎の村人は、文学の中のイメージとは正反対のずるい人々になってしまった。このようなモラルの低下は時代の流れなのか。グローバリゼーションの影響でもたらされたものなのか。グローバリゼーションのせいだとしても、技術、発展、経済、教育、生活レベルの向上というような他の恩恵は受けられず、負の作用だけが波及してくるのはなぜなのだ。あるいは田舎の村人たちは元々誠実ではなかったということなのか……。こんなことをあれこれと考えてしまうのだ。
 ヤンゴンに帰ると、一人の友人と会った。その友人とは随分と長いこと会っていなかったので、店に入って座って話に花を咲かせていた。友人は僕に今何をしているのかと尋ねた。ラプッタでボランティア活動をしていることや、僕たちが今までに出会った悪い住民や悪い僧侶(このような人々はあくまでも少数派であるのだが)のことを話した。その時、友人もチャンジャンゴウン市の村へ連れて行ってもらった時に、似たような経験をしたと言った。
 「君たちのように、長いあいだ暮らした人間はともかく、僕は、わずか一日田舎へ行っただけで、六本瓶坊主に会ったんだよ」といって、六本瓶坊主のことを説明してくれた。友人の言う「六本瓶坊主」とは、手に入った支援物資を何でも親類にばかりあげてしまう僧侶のことだ。
 本当は、六本瓶というのは「1ガロン(ダガーラン)」を指す。喜捨を施す人々をダガー(檀家)と呼ぶが、喜捨したダカーを失望させる僧侶を、「ダガー(檀家が)ラン(失望する)」と呼ぶ。友人が訪れた村では、ダカーを裏切るダガーランの貪欲さを喩えて、村人たちは、その坊主を六本瓶坊主と名付けたのである。■


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翻訳者:井坂理奈
記事ID:620