(展望)一つ質問したい (Weekly Vol12No38 2016年10月17-23日 19)

2016年10月15日付 The Voice 紙
先日、たまたま英語で書かれたミャンマーに関する記事を読んだ。見出しは.....”Noisy Myanmar”。
この見出しを見て、私は大笑いしたくなった。
正しくないから笑いたくなったのではない。あまりにも的を射ていて可笑しかったのだ。
騒がしいミャンマー
言い争っているミャンマー
敵対しているミャンマー
ちょっとしたことで怒り、批判し、悪口を言って、中傷する。

私は、二か月程前に一つのエッセイを書いた。
"拡声器と地獄"。
説教会などのとき、僧院や仏教集会所で使われるスピーカーのせいで、どれほど迷惑を被っているかということを、揶揄した内容だ。

「先生、このことは書かないでくださいね。運が悪ければ、作家テインリンウーのような目に合ってしまう。今日、いとも容易に使われている宗教侮辱の法律は怖いですからね...」
私の慈悲深い読者の一部が、注意喚起してくれた。
「友人よ...あなたが書いたことは正しい。全くもって正しい。我々も毎日、困りはてている。だけど...このようなことは、もう書かないように。「刀で切り落とし自分の手も切る」[訳者注:他人の問題に首を突っ込み巻き込まれるの意]ようなことになるだろう。」
幼馴染の友人の一部は、こう注告してくれた。

そうこうしているうちに、また事件が起きた。マンダレーのマハーアウンミェ郡区のあるホテルに部屋を借り滞在していたオランダ人が、仏教集会所のスピーカーから初転法輪の説法が流されているのを聞くのに堪えられなかったということで、スピーカーの電源を無理やり切って、告訴されているという問題。この外国人に対して、裁判所に起訴した法律条項が、宗教侮辱罪。入国管理法第4(2)及び13(1)の条項。
なんと怖いことではないか。

2016年10月5日発行のVoice誌の社説 でも書かれていた。タイトルは、「宗教と騒音を分けてほしい」。
この社説を誰が書いたのか私は知らないがとてもいいものだった。この社説の要点を書きだせば、以下の点になる。

(1)宗教侮辱罪で起訴したのは正しいのか間違っているのか。スピーカーから発せられている、うるさい音声に耐えられず犯した過ちに対し、宗教侮辱罪という大仰な法律条文を引っ張り出して当てはめるべきなのか。

(2)宗教にかこつけて使い放題使用されているスピーカーの被害にほぼ丸一年さらされて耳も、頭もへとへとになっているミャンマー人なら、オランダ人がなぜ怒りを爆発させたのかということがわかり、同情もする。この外国人に刑法の条項を当てはめ、起訴するのは正しいのだろうか、誤りだろうか。

(3)外国人だから犯罪を軽減するよう考慮すべきだ、と言っているのではない。しかしこの人物が犯した犯罪と、彼を起訴するにあたって用いた条文が、妥当で公正なものであるのか、仏教と、騒音を、混同して考えてはいないか。仏教と騒音には何の接点もない。騒音が人に怒りを起こさせた原因である。

(4)夜11時にオランダからの観光客がホテルの客室ですやすやと寝ていた。仏教集会所から、スピーカー、そう、うるさい音が流され、彼の安眠を妨害した。ミャンマー語がわかる人ではなかったために、スピーカーから発されてきた騒音が、釈迦の教え初転法輪を朗誦した声だと知るよしはなかった。
もしも、それを知っていた、理解できていたなら、彼はスピーカーを切ることはなかったかもしれない。切らなかった可能性が高い。

(5)2014年にミャンマーに観光にきたカナダ人とスペイン人、彼らの脚に仏陀の入墨をしているのを見て、ミャンマー当局が彼らを逮捕した。しかし、宗教侮辱罪で起訴はしなかった。国外追放の罰のみを与えた。

極めて真っ当な社説、論調、その通りだ。

この問題についてはfacebook上でとりあげられはじめた時から、私は気の毒に思っていた。
それが発端で、よくない連鎖が生じることを懸念した。その心配が当たってしまった。起訴したというニュースが流れた。宗教侮辱と聞いて、なおこのこと心を痛めた。

マンダレー市民の多くも私が感じたのと同じように感じることだろう。このようになぜ思ったかというと、裁判所でこの事件を取り調べた時、私たち文学界の有識者たちも、傍聴しに来たからだ。
作家のニープレーにRFAがインタビューした。「この問題は、そう、この事件は文化が一致しないため、誤解が生じたことによるものと私は思う。今日、この時代、そう、大仰にいえば、21世紀のピンロン会議を開催しようとしているような時代に、大きな事件を小さく、小さな事件はないものと扱えることができるなら、その方がよいはずだ。この観光客が白人なのか黒人なのかすら私は知らない。しかし、はっきりしていることはこの人物が、ミャンマーに宗教を侮辱するためにやってきたのではないということ。彼にも、自民族の誇りがあり、個人としての誇りがある。彼は拘留された、今日、留置所で相当辛い思いをした。だからこれまでの拘留日数程度に留め、この問題を終わらせてもらいたいと思う。」と。

これが生粋のマンダレー人の言葉だ。
なんと賢明な言葉だろう。
いかに教養のある人ならではの言葉なのだろう。
その通りだ。

オランダ人観光客も、裁判所で証言した。仏教集会所が宗教地にあたるということを彼は知らなかったと。
その通りだ。
外国からやってきた観光客の一人であり、集会所が仏教の敷地内にあるということを知らなかったとしても何も不思議ではない。そして、スピーカーから護呪経が流れていたのは夜10時。就寝の時間だ。スピーカーから発せられる初転法輪を唱える声が、寝ている人たちにとっては騒音と感じるに違いない。

オランダからの観光客は、法廷で反論するために弁護士を雇わなかった。
驚きだ。
彼を起訴したという発令が出た後、オランダ人観光客の側から奉仕で弁護をするという人が現れた。高等裁判所の弁護士、ウー・フラコーだ。

ウー・フラコーがRFAのインタビューで言った。「この事件を、裁判所として、正しく対処することができて初めて、世界のなかでのミャンマーのイメージをアップさせることができる。宗教侮辱というのは、宗教を意図的に侮辱するために、他の人々が信仰する寺院を壊す、仏像を破壊する、そうしたことで罪になる。眠れなかったから、あまりにけたたましい音だったので、スピーカーのところに行って切ってしまったというのは、仏教を侮辱したことにはならない」と。

しかし....
2016年10月6日にRFAで裁判所の判決が放送された。オランダ人観光客を逮捕した罪状を訂正し、処罰が下された。

禁固刑3ヶ月。
私は残念に思う。
本当に可哀そうなことだ。
しかし、もう何も批判したくはない。ただ落胆してしまった。
作家であるニープレーが言っていた言葉で、「この外国人の客人にも民族としての誇り、個人の誇りがある」というのは極めて正しい。

私はオランダに過去二回行ったことがある。その国は非常に小さかった。けれども、大変に美しかった。たくさんの花々が咲き誇る国だ。オランダの人々はダッチと呼ばれる。大変優秀な人々だ。ヨーロッパ大陸のユダヤ人に次いでダッチ民族が一番優秀だ...そう、ユダヤ人の次と考えられている。

結論として、マンダレー市マハーアウンミェ郡区当局へ以下の質問を一つ投げかけたい。

法律によれば、スピーカーを使用する場合、許可を得なければならない。
上記オランダ人に関わる一連の事実の中で、仏教集会所で初転法輪を唱える拡声器について許可が下りていたかどうか。
もしも許可を得ていたなら、夜11時、そう、真夜中まで、スピーカーをつけたままでよいというのは誰が発令したことなのか。

外国からの客人を処罰したのだから、迎え入れた主人の方も法律に照らして調査したり、処罰したりするべきではないのか、ということを。

ウー・フラティン(空軍パイロットの一人)
2016年10月6日


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翻訳者:土肥眞麻
記事ID:2849