(社説)敬意を示すに値する人物か(Vol.6/No.170, 10月26日 4-1)

2018年10月26日付 The Voice 紙
ダディンジュッ月(訳者注:ミャンマーの暦で第7番目の月。西暦にすると10月半ばから11月半ばごろ)の満月の日が来るたび、ミャンマー社会でいつも行う慣習は、年長者や両親に対し、敬意を示すことだ。その慣習は、仏僧たちが相互に招きあい、自恣(じし:(訳者注)僧侶らが安居期間の行いについて反省や懺悔をすること)をすることから、それを見習ったものだ。
 自恣というのは、出家した僧侶が安居期間におこなったことの中から、一人だけででも、あるいは何人かの間においてでも、不覚にも戒律を破るようなことがあった場合、相互に認め、戒めあうことだというのが簡単な説明である。
 その慣習はミャンマー人社会の中で深く根付いているものであり、ダディンジュッの時が来るたび、自分より年齢的にも、出家歴としても上の人に対して、手を合わせて拝み、意識的にであっても無意識的にであっても、三業(身業、口業、意業)で不覚にも戒律を犯したことがあれば、許しを乞うために、自分の行いを認め、拝むのである。
 愛らしいその慣習は、一般的にみれば文化、伝統の一つとして、ミャンマー人社会の中で伝統的なやり方が定着しているが、その慣習の背後には善悪が交じり合っているほかに、深く考えるべきものもある。
 自己中心的な普通の人々であるので、謝罪し、許しを乞い、拝むことのできるすべての人は、最初に私欲、傲慢さを減らすことができ、自身の欠点を探し、冷静に考えることができ、親、恩師、年長者の庇護のもとにいることを認めることなど、礼儀正しい社会の品格を自身でほめたたえることができる形になる。
 一方では、ダディンジュッ月に年長者に敬意を払うことを言い訳に、貧しい社会あるいは独裁制度に支配される社会において、同時期に発生する不道徳な行為や贈収賄を促進させる慣習をも生みだしている。
 実際に、敬意を示す人に比べて、敬意を示される方は責任がより大きい。その理由は、自分が敬意を示されるに値する年長者の素質6箇条(忍耐、機敏さ、勤勉さ、慈悲、見識、穏当な判断)を十分満たしているか、果たすべき義務や守るべき決まりをどれほど果たし守ってきたか、自分自身が、自分に敬意を示す人あるいはほかの人々に対して、どれほど罪になることを行ってしまっていたか、などの付随する疑問が浮かびあがるからである。
 大変確実なことは、毎年、敬意を示すに値する人物であるように、自身で従う決まり、道徳心のような精神的な価値のほか、知識、技術などの素質と、身体の丈夫さのような身体的健康を高めていくよう気づかせていくため覚えておかねばならないということである。
 私たち一人一人も、ダディンジュッ月に敬意を示すことから考え、自分自身の中にある自己中心的な考え方、誇り、自尊心、守るべき決まり、堅固な道徳心、年長者の品位に応じた慎重な行い、振る舞い、言動、生活、仕事、そして両親、恩師、年長者、友人、知人や他人に対し欠点を探し、けんか腰で接し嫌悪し、衝突し、侮辱することがどれほどあるのか、またどのように改善すべきかについて注意を払い考えることが必要である。
編集者(2018/10/25)


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翻訳者:黒臼重美
記事ID:4569