(Editor’s Word)ミャンマー人らはより一層粗暴になってきたのか(Vol.6/No.171, 10月28日, 4-2)

2018年10月28日付 The Voice 紙
 この時代でミャンマーの社会的環境を見てみると、文化レベルが低下してしまったのではないかという疑問が出てくる。そのように問わねばならないほどに[そうしたことを]毎日見聞きするようになってきている。
 卑近なものに、道で思いがけずに肩がぶつかってしまった時に、「お許しを」「ごめんなさい」という言葉を述べる人がとても少なくなってきた。バスで、空港で、優先席を必要とする人のための椅子さえも譲りたくない。
 話すときも品のない言葉がますます目立つようになってきている。多くの人が、思わず耳をふさぎたくなるような言葉を普通に当たり前のように話し、頻繁に新しい言葉が話されるようになっている。年配の方々、先生方、御坊様に話す呼称、語彙を知らないのだ。
 人を見るときに、礼儀に欠ける目つきにならないよう、必要以上に長い間目を合わせ凝視したり、被っている帽子から着ている衣服、履いている草履まで、全身を何度も見まわしたり、何か食べている人をじっと見たりしないよう、眼が守るべきモラルを無視したりするようになってきている。
 運転している時、小道から出るために待っている車、反対車線側へ曲がろうとして中央線で待っている車、自分の前でウィンカーを出して車線を変更しようとしている車など、知っているのに自分の前に割り込ませたくないので、止まって道を譲ることをせず、前の車のすぐあとを強引にくっついてきている車、黄色で囲まれた駐車帯をふさぐように停めている車、信号で速度を落さずスピードを出して運転する車などが、日々増えている。
 インターネット上のSNSでも、自分の立場、意見と違う内容に対して、道理にかなった、上品で人格者らしく、意見の違いを議論するというよりも、自分の意見を絶対としてレッテルを貼る、他人を攻める、悪口を言う、非難する、他人の粗探しをする、程度の低い罵倒、などをする人が増えている。
 楽しませるために行うコンテストのようなテレビ番組でさえ、自分が応援している人に対して過度に誉めそやし、自分が応援している人のライバルに対しては取り立てて言うこともない些細なことに始まる非を見つけて、つまらないことを侮辱していることは見るに堪えない。
 最近、警察署で、殴り合いや、凶器を用いた暴力、銃の発砲、殴打、ひったくり、強姦、悪党グループによる乱暴、何ともない些細な問題で人を殺めることがとても多くなっている。
 率直に言うと、ミャンマー人は以前よりも粗暴になってきているのかということだ。自分の周りで毎日目にすることと釣り合わせてみると、30年前、40年前よりも粗暴になってきていると迷わず答えることができると思う。それに関して調査をひとつでも行ってみれば、絶対に明らかになる。
 そうだとするならミャンマー人はどうしてこんなに粗暴になってしまったのか。考えられる要因はいろいろある。確実なものでは、過去40年にこの国が行ってきた政治制度、経済レベル、教育政策、宗教に基づく法の支配、それら4つの基となる柱のためであると言えると考える。
 独裁制度のもとで支配者と支配機関が互いの間でも、国民と直接接するときでも、年齢によって関係するものよりも、地位の高い、低いによって部下に対してとても押さえつけて関わる様式があったため、このような関係が国民の性格に影響してしまったのだ。
 より一層深刻なのが、学校の授業で「国民が守るべき教え」のように、国家の事柄と、倫理規範を含めて、教えるようなことが途切れてしまったことだ。結果として、国際的にどころか、国内においてさえ互いの間で理解しあえないようになってしまった。
 実際に、この時代のミャンマー人は徐々に文化の基礎が衰退しまっていることを検討してみると、「暗黒時代」と同じ最悪の時期を通過してきたミャンマー人の運の悪さと言わなければならない。この状況を修復するために、古い世代にあまり期待することはもうできない。新しい世代をトレーニングし、育て教えるとして、さらに2世代ほど次の世代まで待たなければならないだろう。
 そのため今からは体系的に研究、調査報告を行い、短長期の諸計画と解決策を模索していく必要がある。そのようにせず、この通り流れるにまかせていたら、この国、この社会の文化水準が高くなるようにと想像することすらできなくなってしまうということに注意を喚起したい。差し当たって、誰に対してであれ、どのような問題であるかに関わらず、自分からまず上品にふるまうことが最も実践的で実現可能な道であると言えるだろう。(編集者 2018年10月27日)


同じジャンルの記事を見る


翻訳者:山口由利加
記事ID:4572