(社説)社会の中の教育の重要性

2019年05月30日付 The Voice 紙
2019年5月30日 
約15年から20年前に、アジアに関する専門家かつ開発評論家のキショール・マブバニ氏が「アジアの人々はまだ熟考できていない」という論文を執筆し、西洋諸国社会に入っていったアジア人の思考が大規模に変化していくこと、鋭い思考の持ち主となっていった様子を指し示したことを一部の読書人は覚えているかもしれない。

 その論文をミャンマーのある作家が、その当時名声を得ていた雑誌に翻訳して掲載したため、読書人や政治思想に興味を持っている人、ミャンマーの成人らとの間で討議の対象となったことがある。

 アジアの人々の大多数は孔子思想の影響により、思考という観点から西洋諸国の人々と比較すると、自由や飛躍力に欠くとキショールが指摘した指し示した。その点についてはアジアの一員であるところのミャンマーの若者たちも、独創性に重きを置くだけでなく、キショールのような同時代作家や専門家が執筆する文学を読み漁ることが重要であるという点に、気づき始めたといえよう。

 数日前、アメリカ合衆国を拠点とするThe New Yorkerという雑誌において、現代において歴史に関わる思想が軽視されつつあることを指摘する学者の論文が掲載された。

 その論文の趣旨は、歴史を知らず歴史に関する知識も知らない国民がいる国は、偽教師ややぶ医者、極端な愛国主義者のみが寄り集まって支配することになるというものだ。

 ミャンマー社会においてもどのような状況であるかを問うべきである。ミャンマーで歴史を知ること、また歴史に関する見解を得ることが重要であると気付かせ、示してくれたのはタントゥン博士ただ1人で、この問題を真剣に捉えて理解する人々は歴史文学を勉強する彼の仲間と一部の読書人だけかもしれない。知識人の考えは、実際に走って見てきたことよりも正しいことがあるという故事のごとくである。タントゥン博士が「無知蒙昧にならぬよう、歴史を教えておきなさい」と警告していたのは、ミャンマー社会を偽ものたちが支配する将来を憂えてのことだったと思われる。

 ミャンマーの人々のみならず他の社会でも貧富の差があることを、何年もの間語り続け答えを探してきた。しかし考える能力が均等ではないことを重視すべきだということに気づいていない。政治家の大多数は自分の政党で良い地位を得ること、政党が勝利することだけを優先し、ユニフォーム着用者(軍人や警官等々)は自分に地位と職を与えてくれる人に対してどれ程まで忠信を持ち、取り入るかということだけを重視してきた。

 ミャンマー社会にとって、考える能力の格差をなくす、良い教育制度を樹立し、学問を高く評価する社会を作ることができない限り、どの国も超えていくことができないと警告したいのである。

  編集者(2019年5月29日)


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翻訳者:原田佳歩
記事ID:4832