(社説)ウィラトゥとバチが当たることを恐れる人

2019年06月06日付 The Voice 紙
2019年6月6日

 今日ミャンマーのメディア、フェイスブックなどのSNSを通じて国民のあいだでしきりに話されている人物や出来事はウィラトゥのことといえよう。
 ウィラトゥがどのような人物や言動を詳細に説明する必要はなかろう。しかしウィラトゥに関して特筆すべきことはある。「きちんと伝えられず、結果悪態をつく」というミャンマーの慣用句によれば、ウィラトゥをきちんと諌めることができなければ、ブッダの御教えを心の奥底から信仰する敬虔な仏教徒でさえも仏教の教えに背くことになりかねない。心底、ミャンマーの国の発展、向上を必要としている人でさえ、国民の大事に関心のない者としての烙印を押されうる。
 ウィラトゥは国民の問題という大義のもとで数多くの発言をしてきた。彼の発言の共通項としては、アウンサンスーチー氏と民主派政権は悪で国軍は英雄のようであると表現していること。自分がみたいように見るのだ、何が悪いという態度で述べてきた多くの言葉のなかで、とりわけミャンマー人たちを呆気にとらせる言葉、「国軍議員の代表をブッダのように信仰すべきである」といった扇動の言葉。外国からの来賓と面会するアウンサンスーチー氏に対して個人攻撃を行う彼の意見も、この人物は果たして本当の僧侶なのかと疑問視させるものがある。
 ミャンマー人は、国民を抑圧する軍事政権の傘下に半世紀近く入ったのみならず、はるか以前から畏怖の念による教訓で育ってきたのだ。自らが信仰する仏教の開祖であるブッダは護法者の一人であるがミャンマーの仏教徒の大多数はブッダの御教え、慣習、高僧を批判することを恐れている。バチが当たるのを恐れているため、諌めることをできないでいる。客観的に見たところ、ミャンマーの仏教徒は諌めることと、誹謗中傷することを混同しているようである。
 現在罪人として逃げる立場になり、誰でも捕らえ警察署で拘束することができると発表されたウィラトゥがどこにいるのかということは現代の関心事になってきた。ウィラトゥを支持する僧侶は「サンガに逆らうと大変なことになるぞ」と、はらわたが煮えくり返るような声で話した。「類は友を呼ぶ」といった状況になっていることは珍しいことではない。
 仏教には許し、寛容という教えがあり、それを実践し、いじめや殺生や陰口、乱暴な言葉の使用などを避ける人々を僧侶だと考えている。僧侶の側も、僧が守るべき戒律を敬意を持ってはじめてブッダの御教えを守ったことになる。そう、見識深い僧侶が教え諭してくれたことを何度も聞いたことがある。
 ウィラトゥを捕らえるか、捕らえないか、もしくは処罰するか処罰しないかなどがどのなるかについては誰も確かなことは言えない。しかし、ミャンマーの仏教徒たちが信仰しているブッダの御教えを長く実践している者の中には、戒、定、智を備えた僧侶も僧侶としての名誉を身につけた人々が表に出ることが重要であると重ねて言わねばなるまい。ウィラトゥの件は政治グループを作り、駆け引きを行うのみならず、仏教にまで影響を与えうるのだと関係者一同に注意する必要が生じているのである。


この記事の原文はこちら

同じジャンルの記事を見る


翻訳者:恩地隆平
記事ID:4843