(パースペクティブ)海外メディアとミャンマー(1)

2019年06月20日付 The Voice 紙
2019年6月21日 コー・ワン

筆者は幼い頃、1956年ごろからラジオを聴き始めた。その頃はトランジスタと呼ばれる電池式ラジオはまだ登場していなかった。電源コードをつないで聞くラジオしかなく、ラジオの中には電球が付いていた。筆者の故郷であるミンブー市では1955年になってやっと政府が発電機を設置したのだ。1956年に公立高校の美術教員である父が夏季の教員美術研修に出席しようとヤンゴンへ行き、帰りに小さなラジオを一つ買って帰ってきた。フィリップスのラジオで、当時の値段で300チャットであった。小さなラジオといったのは、横幅が8インチ、高さが約6インチしかなかったからだ。その頃、シーマンやエコーなどの大きなラジオも登場していた。大きなラジオにはチャンネルを切り替えるボタンが3つか4つ付いていた。私たちの家のフィリップスの小さなラジオには、そのようにチャンネル切り替えボタンはなかった。しかし、国営放送も海外放送も受信して聞くことはできた。海外放送局は短波放送で、国営放送も短波放送で聞かねばならなかった。

今日のミャンマーで放送しているマンダレーFM、バガンFM、シュエFMというのは、FMという新しい周波数システムで放送している。ラジオ電波にはMWと呼ばれる中波放送もある。FMは国内でのみ受信し聞くことができる。短波と中波は国外放送を受信できる。ある番組に関して、一つのラジオで短波放送を、他のラジオで中波を聞いたら、中波からの放送がより遅いことに気づくだろう。国営放送からの放送は、FMでも短波でも中波でも放送するので、家のフィリップスのラジオで受信できるのだ。(これについていえば、筆者はミャンマーと1時間半の時差があるマレーシアとマカオで仕事をしたときにも、ミャンマーの国営放送を短波で受信できた。バンコクで出会ったある船乗りも、1988年の民主化運動の時にはミャンマー国営放送をペルシャ湾のある国で聞いたと言っていた。)1956年に筆者たちは国営放送だけでなく海外放送局のミャンマーセクション(ビルマ語放送)の番組も聞いた。インド国営放送(AIR)ミャンマーセクションのドー・キンチー(訳者注:ドー・アウンサンスーチーの母。)声にはその頃から親しみがある。彼女が、1970年代にインドにいたタンタンヌ先生(ウーヌ元首相の娘で、ペンネームはミャタンタンヌ)と出会い親しくなったことがリビングカラー誌に掲載された同先生の記事からわかる。AIRミャンマーセクションは今日まで放送を続けており、受信して聞いてみたいのであれば、夜7時ごろにSW-1, SW-2の波長に合わせてみるといい。AIRミャンマーセクションからはマーマーエー氏(ミャンマーで著名な女性歌手)の幼少期の歌がよく流れている。

もう一つの海外放送局を挙げるなら、パキスタンラジオ・ミャンマーセクションだ。50年以上前のことなので、このラジオのアナウンサーたちの名前を覚えていない。当時について、さらにもう一つあげるなら、北京ラジオ・ミャンマーセクションである。中国については1949年10月1日に中国共産党が国民党に勝利し、台湾がアメリカの援助を受けており、1655-56年に共産党政府がアメリカを大々的に批判していたような時代である。「アメリカの帝国主義者たちは」という、北京ラジオ・ミャンマーセクションの女性アナウンサーの甲高い声がよく聞こえたものだ。そのほかに、アメリカの戦闘機が中国の領空を侵犯したため376回目の警告をした、377回目の警告をした、378回目の警告をしたなどの、頻度が増加する警告の声明も耳にした。それが何回目で終わったのかは覚えていない。1967年にヤンゴンで反中国人暴動が発生すると、北京ラジオ・ミャンマーセクションからミャンマーに強く敵意を示すのを聞いた一部の人の話も聞いたことがある。しかし当時筆者はマンダレーで学校に通っていたため、海外の放送からは遠ざかっていた。


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翻訳者:笹森奎穂
記事ID:4876