(社説)常時注意すべきヘイト・スピーチ

2020年07月16日付 The Voice 紙
ミャンマーに諺がたくさんある中で、「しゃべりすぎると出自が出る」、「めり込んだ足は引き抜けても滑り出た言葉は撤回できない」といった戒めのような諺は、時代がどんなに移り変わろうと、誰にとっても役立つものであり続けると思う。

FacebookのMessenger(メッセンジャー)のように、相互に文字を入力し、話すことができるだけでなく、ビデオでもLiveで会話のやり取りができるアプリケーション(APP)、あるいはオンラインでの連絡を取り合うプラットフォームが出現している今日の時代において、オンライン上において、文字で話す言葉にも特別の注意を払うべきだ。

上述のアプリケーションによって、友人2人(人間2人)の間だけでなく、幼な友達同士、同じ趣味を持つ者同士、同じ職業同士など、集団(グループ)を作りながら、相互に連絡して話すことができるようになると、世間付き合いだけでなく、事業や仕事をもし易くスムーズなものにさせる。

しかし、うっかり自分から載せた一つの投稿、あるいは書いた一文面ですら、他の相手方においては意味が様々に受け取られてしまう可能性があるという点に、そのプラットフォーム上の者全員が特別に注意を払うべきだ。

ソーシャルネットワークを使って市場を探す人々、言い換えればFacebookで利潤を追求する人々を通じて聞き知った戦略によって、Likeを多く得られるために、ヘイトを助長する投稿、動画ファイルを故意に載せているという。噂され、人気がでること、[あるいは]憎しみを抱く人が増えれば増えるほどそのPageはますます成功しているという考え方である。

捏造してでも、相手側の憎悪をなんとか生じさせてはじめて得られるようになる名声、あるいは、成功や知名度の高さといったものは、名誉な事なのだろうか、と大いに疑問を生じさせる。多くの刺激、多くの拡散があり、Likeをたくさん得られれば得られるほど、認知され、より多くの広告主を探すことができるという考えをオンラインの経済モデルの一つであるかのように聞くことは大変悲しむべきことだ。

その他に、言葉に関して、より慎重に考えるべきこととして、時折、正しい言葉でさえHate Speech(憎しみの言葉)のようになり得るものなので、自分で正しいと思った時でも、話すべきか話すべきでないか、自分の理性で考えて検討すべきだという点である。

新しい民主主義国家を築くという場合、言論の自由は万難を排して尊重すべき最優先案件ではあるが、自由を理由に、無責任に土着民族グループの間に憎悪を燃え上がらせる可能性のある憎しみを含んだ内容を拡散させないよう、国民一人一人に、責任があるということを要請したいのである。 編集者(2020年7月15日)


この記事の原文はこちら

同じジャンルの記事を見る


翻訳者:重原志帆
記事ID:5423