ベトナムに関するパリ協定 50 年と祖国統一 48 年【1】

2023年04月30日付 VietnamPlus 紙
【写真①】スイスの青年たちがノートルダム大聖堂の尖塔に登り、ベトナムの旗を掲げるプロセスを図示した写真。(国営ベトナム通信)
【写真①】スイスの青年たちがノートルダム大聖堂の尖塔に登り、ベトナムの旗を掲げるプロセスを図示した写真。(国営ベトナム通信)
ベトナムに関するパリ協定 50 年と祖国統一 48 年【1】


54年前、ベトナムを支援するために、3人のスイス人青年がスイスからフランスに行き、パリのノートルダム大聖堂の尖塔に南ベトナム解放民族戦線の旗を掲げた。



南部解放、祖国再統一の闘争において、ベトナムは国際社会の友人から様々な形で非常に重要な支援を受けてきた。

54年前、3人のスイス人の青年、ベルナール・バシュラール、オリヴィエ・パリオー、ノエ・グラフは、スイスからフランスに行き、パリでベトナムに関する4者会議が正式に始まる1969年1月19日にノートルダム大聖堂の尖塔に南ベトナム解放民族戦線の旗を掲げことでベトナムへの支持を表明した。

ベトナムに関するパリ協定調印50年(1973-2023年)および南部解放・祖国統一48年(1975年4月30日-2023年4月30日)記念に際し、現在80代になったベルナール・バシュラール、オリヴィエ・パリオー、ノエ・グラフは、あの日、ノートルダム大聖堂の尖塔に、上半分が赤、下半分が青の下地に鮮やかな金色の星がついた旗を掲げた感動的な体験について語った。


第1章: ベトナムの平和を支援するパリへの道のり

この物語は 50 年以上前の出来事だが、国営ベトナム通信社(VNA/TTXVN)の 記者は、彼らの語りから、当時ベトナム反戦運動で積極的に活動していた3人のスイス人の友人の熱意、勇気、理想を感じ取ることができた。

オリヴィエ・パリオーは、ジョンソン米大統領が北ベトナムへの爆撃停止を発表し、交渉のテーブルに着く用意があるとしたニュースを聞くやいなや、3人は、1969年1月18日からのパリでの交渉は、設立から9年を経た南ベトナム解放民族戦線の国際的承認につながるであろうことから、「祝う」べき出来事になると思った、と語った。

オリヴィエ・パリオーは、「パリでの交渉がついに1月19日の週に開幕することを知りました。このイベントを印象的かつ幅広く影響を与えるような方法で祝うために、私たちは高い建物を選びました。それは、エッフェル塔ではなく、人間味に満ち、全世界から尊敬されている場所、即ち、パリのノートルダム大聖堂です。」と述べた。

計画によれば、当時25歳の物理学を学ぶ学生だったオリヴィエ・パリオーとノエ・グラフ(24歳、法学部の学生)が運転と見張りを担当し、26歳の体育教師だったベルナール・バシュラールが塔の頂上へ登るのを手伝った。

南ベトナム解放民族戦線の旗は、ベルナール・バシュラールの有能な妻が直接用意した。当時は反戦運動が盛んに行われていたため、南部解放民族戦線の旗を手に入れるのはそれほど難しいことではなかった。

彼らは登山用具を一切使わず、夜中にノートルダム大聖堂のヴィオレ・ル・デュクの尖塔の頂上まで素手で登り、高さ96メートルの頂上の十字架に旗を掲げる計画を立てた。

「この行動には多くの入念な準備が必要です。なぜなら、私たちはパリジャンではないので、どうすればその頂点に登れるよくわからなかったからです。しかし、交渉が1969年1月18日から始まると発表されたので、私たちはシトロエンの2CV車を借りて出発しました。」とオリヴィエ・パリオーは振り返った。

A6道路を何時間も走った後、3人のスイス人青年は1969年1月18日土曜日の正午頃にパリに到着した。荷物は、上半分が赤、下半分が青の下地の旗の他に、絹布1ロール、長めのロープ、弓鋸、そして、わずかのフランスフランだけだった。

その日は風がかなり強く、気温は約4度ちょっとの冬の天候であった。参観時間終了前に観光客の流れに加わり、午後 3 時 30 分頃に南鐘楼に到着し、高さ 45 メートルにある塔の最初の通路で、 2つの鐘楼を繋ぐクリアストーリー(高窓)の上層階に到着した。

ベルナール・バシュラールとオリヴィエ・パリオーは、周囲の状況を把握しながら、ノートルダム大聖堂の北鐘楼への道を見つけた。

午後6時頃には日が落ち暗くなった。ノエ・グラフが見張りをする中、二人は教会の身廊に沿った雨樋をたどり、北鐘楼の足元にたどり着き、少しずつ上った。それは、困難と危険に満ちたものだった。

その途中、鎧戸の折戸の隙間をすり抜け、樫の木の巨大な梁に抱きつきながら、10メートル下に降り、体は何世紀にもわたってたまっていた埃で覆われた。

北鐘楼から身廊の雨樋の壁までは、3人が調べた図書館の地図帳にあったような繋がった道はなく、高さ35メートルの地点で、2メートルもの距離を飛び越えなければならなかった。

オリヴィエ・パリオーは、「すでに暗くなっていていた。背中は鐘楼の壁につき、勢いをつけるために後ろに下がれる場所などなかった。バシュラールは難なく飛び越えた。私はギリギリで飛び越えられ、幸いにも大丈夫だった。」と語った。

もう 1つの難しい通路は、身廊が交差する場所で、そこには宣教師聖マルコに捧げられた、翼のあるライオンのシンボルで始まる浮き彫りのブロンズ像の列が置かれていた。

これらの像は台座の上に置かれ、高さ2メートル以上の傾斜のある階段状に設置されているが、つかめるような突起物はなかった。像の高さは3メートル以上もあった。

2人は一時間かけて登り、滑り落ちたりしながら、尖塔の本体に到達し、最終的に第1回廊に到着したのは午後9時ごろだった。そこからは屋内になるため、移動はそれまでよりは楽になった。

そうしたいくつかの不測の事態が発生したにもかかわらず、2人は予定していた時間に尖塔のふもとにたどり着いた。肩に絹の布を巻いたバッカスは、登山用の安全ロープの端を自分のベルトに結んだ。

絹製の旗の大きさは 3 x 5m で、2か所の端にバネのあるフックのついた紐を固定できるよう、布の縁は強化されていた。旗は、絡みつかずに広げられるよう、丸めるのではなく、オルガンの形に折りたたまれていた。絹布のロールは細めのロープでつながれた10本のゴムバンドで固定されていて、長さは12メートルあった。

素手で尖塔の頂上まで登るのは午後10時頃から始まった。尖塔の北側には鉄の棒が約60cmの間隔で壁に固定されていた。

尖塔は八角形の断面をしており、8つの側面に沿ってゴシック様式の「フック」装飾が施されていた。木の芽が描かれ、王冠の形にまとめられた浮き彫りの文様で、約2メートル間隔で置かれていた。

これらの支えになるものをつかみながら、二人は実にゆっくりと登り、次の鉄の棒が壁にしっかりと固定されているかどうか、一世紀にわたる雨風や熱サイクルによる劣化がないかどうかを確認しながら登った。

尖塔の頂上に登るほど、彼らの体は吹き抜ける風を感じ、遠くにセーヌ川左岸が舞う姿が見え、眼下の教会の屋根はほぼ真っ平になっていた。

オリヴィエ・パリオーはさらに続けた。「直径1メートルのバラとユリの王冠の下3メートルのところで立ち止まった。バッカスが22時45分に最後で最も危険な登りを行うのを待った。即ち、十字架部分への登りである。バラの王冠の困難な高い場所を越え、バッカスは高さ 6メートルの十字架の足元まで金属製の柱を登り、十字架の根元の模様を握りしめた。バッカスは、柱を登るように十字架を登り、十字架がクロスするあたりの装飾の文様をしっかりとつかみ、旗の上部のバネフックを取り付けた。」

バーナードの勇気のおかげで、すべてはスムーズに進んだ。ベルナール・バシュラールとオリヴィエ・パリオーは尖塔から降りる際、消防士が尖塔に近づくのを防ぐため、鉄格子の一部を切り落とした。それは、旗が翌日の1月19日の日曜日に人々の目に留まるまで、十分な時間、尖塔のトップではためくようにしたのである。

スイスから来た若者たちの勇敢でやや危険な30時間の行程を経て、1969年1月19日、南ベトナム解放民族戦線の上半分赤、下半分青の下地に鮮やかな金色の星が描かれた旗がパリの青空に掲げられ、地元の人々や観光客の賞賛の視線を受けながら、はためき続けた。

この出来事はホットな話題となり、海外の報道機関も関心を寄せた。数日後、フランス、米国、その他多くの国の主要新聞は、尖塔の頂上にはためく旗の写真とともに、手に汗握るような旗を取り外すまでの詳細や、旗を掲げた人物に関する推測記事を掲載した。

第2章:解放旗の拡散力



【写真①】スイスの青年たちがノートルダム大聖堂の尖塔に登り、ベトナムの旗を掲げるプロセスを図示した写真。(国営ベトナム通信)

【写真②】消防士がヘリコプターを使って、パリのノートルダム大聖堂の尖塔からベトナムの旗を撤去している写真が国際紙に掲載された。(国営ベトナム通信)


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翻訳者:東野仁音
記事ID:6725