ジョージ・ハリスンの「バングラデシュ・バングラデシュ」
2017年04月24日付 Prothom Alo紙


(2016年12月12日付)バングラデシュの独立戦争を戦ったのはベンガル人ばかりではない。世界中の創造的な人たちもそれに関わることになった。次に紹介するのは、そんなひとつのエピソードである。
1971年8月1日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開かれた「バングラデシュのためのコンサート」を企画した人たちの中心にいたのは、ビートルズのメンバーのひとり、ジョージ・ハリスンだった。そのコンサートの最後にジョージ・ハリスンが歌った「バングラデシュ・バングラデシュ」は何百回聴いても、あの偉大な独立戦争の記憶を、今でも私たちの心によみがえらせる。そして目には涙が幾度も溢れてくる。私たちがジョージ・ハリスンを愛してやまない所以だ。

2011年2月、ジョージの妻オリビア・ハリスンがダカを訪れたおり、ショナルガオンホテルで『バングラデシュのためのコンサート」についてじっくりと話し合う機会があった。2月15日のことだ。コンサートを通じてジョージとバングラデシュのあいだにある種の精神的なつながりができた、とオリビアは語った。バングラデシュの人々の悲しみや苦しみ、そしてパキスタン軍による虐殺行為はジョージの心を深く傷つけた。「71年、バングラデシュでの大虐殺事件や破壊行為、度重なる殺人事件は、シタール奏者、ラビ・シャンカル(ロビ・ションコル)を打ちのめしたんだよ、とジョージは言っていました。ジョージはそれで心を痛めていましたが、自分のレコーディングで忙しくしていました。1970年にビートルズが解散したので、新しい歩みを始めることに気持ちを集中していたのです。ラビ・シャンカルが、バングラデシュのためにお金を集める目的でコンサートをやりたい、と言ってきたのはそんなときでした。ラビ・シャンカルはジョージにも一緒にやってほしいと言いました。ジョージ自身もやるべきだと考えました。彼が呼びかければ賛同してくれる人もおおいでしょうから」
それからというもの、ジョージはコンサートを目指してボブ・ディラン、エリック・クラプトン、リンゴ・スター、レオン・ラッセルといった人たちにアプローチした。ボブ・ディランとエリック・クラプトンはコンサートの1日前ニューヨーク入りした。「イマジン」を歌った不滅のアーティスト、ジョン・レノンは1週間前に出演できなくなったとジョージに伝えてきた。
「バングラデシュのためのコンサート」に関わるようになったいきさつを、ジョージはその自伝的な作品「アイ・ミー・マイン」で詳細に記している。ジョージは1971年、ロサンジェルスでアルバム「ラーガ」を製作していた。そんなおり、ラビ・シャンカルから、バングラデシュ難民のためにコンサートをやりたいと打ち明けられた。ラビはバングラデシュの独立戦争についての各国の新聞や雑誌をジョージのところに送ってきた。
「何が起こっているのか、だんだんと分かってきたのだ。これはきっとラビ・シャンカルの手伝いをすべきなんだろうな、と思うようになった」。ジョージはそんなふうに書いている。そしてさらにこうも記している。
「これがのちに『バングラデシュのためのコンサート』となったものに関わるようになったいきさつだ...リハーサルは十分にできなかった。いや実際、みなが揃ってのリハーサルは一度も行なわれなかった。いろいろと問題があって、まとまりのない形でやるしかなかった...そうやってコンサートを開いたんだ。コンサートは2回やった。最初のコンサートのチケットが完売してしまったので、2回目をやったというわけさ。まあうまくいった。運が良かったということなんだろうな」
ジョージ・ハリスンは1960年代の半ばに、ラビ・シャンカルのもとでシタールを習い始めた。ヨガの修業もした。インドを何度か訪れている。インド哲学から大きな影響を受けた。シタールを習い始めて3年後の1968年、自分は大したシタール奏者にはなれないと悟ったものの、ラビ・シャンカルとの師弟関係そして友情は終生代わることがなかった。
バングラデシュの難民支援、とりわけバングラデシュの独立戦争を支持することを目的とした催しが開かれたのはこのコンサートが初めてだった。ジョージはそのことを嬉しく思い、ラビ・シャンカルも喜んだ。その後アフリカの飢餓支援などで世界各地で、著名なアーティストたちが参加して各種のチャリティー・コンサートが行なわれるようになったが、「バングラデシュのためのコンサート」ほど大きな影響を及ぼした催しは他にない。ジョージは「アイ・ミー・マイン」でこう書いている...「つまり、ぼくらはバングラデシュで起こっていることに世界の目を向けさせることができたというわけだ。ぼくらがコンサートの準備を進めていたとき、アメリカはパキスタンに武器を送っていた。毎日何千もの人たちが命を失っているというのに、新聞にはほんの数行の記事が出て、『ああまだ続いているのか』なんていうのが普通の受け止め方だった。そんななか、ぼくらは大いなる注目を集めることに成功した。今でもベンガル人が経営するカレー屋に行ったりすると、ウェーターから『ハリスンさん、ジジャングルに身を隠してゲリラとして戦っていたとき、他の国で自分たちのことを思ってくれる人がいる、と知るだけでずいぶん心強く思ったものでした』などと言われることがある」
「バングラデシュのためのコンサート」の目玉はボブ・ディランとジョージ・ハリスンだった。コンサートでジョージは8曲を歌った。そのうち1曲はボブ・ディランと一緒に披露した。ボブ・ディランが歌ったのは5曲だった。(その後発売されたLPレコードには5曲すべてが収録されたが、2005年に出たDVDでは4曲のみとなっている) さらにリンゴ・スターとビリー・プレストンが1曲ずつ、レオン・ラッセルはソロで1曲とドン・プレストンとともにもう1曲歌った。コンサートの最後を飾ったのはジョージ・ハリスンのあの忘れられない曲「バングラデシュ・バングラデシュ」だった。この歌は作詞・作曲ともジョージの手がけたものだ。世界の人々への、バングラデシュのひとたちを支援しようよという呼びかけがこの曲の主題となっている。こんな一節がある。「だから今日みんなにお願いするのさ、少しだけでも命を救おう、少しだけでも悲しみを遠ざけようよ、と。少しでもいい、飢えに苦しむ人たちにパンを分けてあげよう。バングラデシュの人たちを助けようよ」ジョージは高音で悲しみに満ちた声で歌を歌い上げた。その歌声には人類愛への深い呼びかけが込められている。だからこの歌の響きは今も私たちを励ましてくれるのだ。「バングラデシュのためのコンサート」以降世界の国々で、チャリティーを目的とした大規模なコンサートが数多く開かれているが、そうした催しの先駆となったのが40年前のこのコンサートだった。
2005年には、このコンサートの模様をおさめたDVDが新たに発売された。きれいなケースに入った2枚組のセットは今でも入手可能だ。このうち1枚にはコンサートの情景が収録されており、もう1枚にはアーティストや技術関係者たちのインタビューがあって、コンサートの裏話を知ることができる。リハーサルの様子などもうかがい知ることができる。写真入りの冊子もついたこのDVDセットの売り上げは「ユニセフのためのジョージ・ハリスン基金」に入る仕組みになっている。このDVDセットに寄せて、ラビ・シャンカルは次のように書いている...75年におよぶ音楽生活の中で相当な数のコンサートをしたが、そのなかで、マディソン・スクエア・ガーデンでのこのコンサートは忘れられないもののひとつだと。
2005年のDVD発売に合わせて製作された冊子におさめられている、「ユニセフのためのUSA」のチャールズ・レオン会長の文章によれば、このコンサートのチケット売り上げはおよそ25万ドルに達したという。1971年12月に発売された3枚組のレコード、およびその翌年に、コンサートの模様を中心に製作された映画による収入はさらに大きいものだった。こうした売上げ金はその後、ユニセフが運営する子どもの福祉を目的とした基金に寄付された。
こうしたことから、ラビ・シャンカルやジョージ・ハリスンなど、コンサートに出演したアーティストたちへの私たちの熱い思いはいつになっても決して衰えることがない。むしろ枯れることのない泉のように、私たちバングラデシュ人を励ましてくれ続けている。コンサートの様子を何度見たり聞いたりしても、初めてのときにように胸がいっぱいになる。
オリビア・ハリスンはユニセフ・ジョージ・ハリスン基金の創設者の一人だ。2011年2月ユニセフのサポートでバングラデシュでの活動を視察するため3日間ダカを訪れた。オリビアはダカや周辺地域で貧しい子どもたちのために行われている活動を視察した。チョットグラム山岳地域ではジョージ・ハリスン基金の支援で子どもたちを対象としたプログラムが実施されている。オリビアとユニセフは、シレットの湿原やチョットグラム山岳地域地帯での「船の学校」活動について語り合った。これがオリビアの初めてのバングラデシュ訪問だった。長年にわたりオリビアは亡き夫が始めた人道的活動を続けている。その成果の一つがバングラデシュの子どもたちだ。このように、ラビ・シャンカルとジョージ・ハリスン、それに「バングラデシュのためのコンサート」は今日もバングラデシュで風化することがなく息づいているのだ。


ジョージ・ハリスンの歌

バングラデシュ


友達が僕を訪ねてきた
悲しそうな目をして
助けて欲しいと僕に言った
祖国が滅びる前に

僕には痛みは感じることはできないけれど
何かしなければいけないと思った
僕はみんなに今日お願いしたい
いくつかの命を救うために手を貸して欲しい

バングラデシュ、バングラデシュ
多くの人が飢えで亡くなり
まるで地獄のようだ
あんな絶望的な窮状は見たことがない
君たちの力を貸して欲しい
理解しようとして欲しい
バングラデシュの人々を救おう

バングラデシュ、バングラデシュ
なんという大惨事だろう
僕には理解できないけど
まるで地獄のようだ
こんなに痛ましいことは見たことがない
目を背けず、言おう
バングラデシュの人々を救おう、と

バングラデシュ、バングラデシュ
僕たちがいるところからは遠くのことに思えるかもしれない
だからといって撥ね退けてしまうわけにはいけない
この困難を見過ごすわけにはいかない
パンを分け与えてくれないか
飢えた人々に食べさせよう

バングラデシュの人々を救おう

訳:シャッジャド・ショリフ

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(翻訳者:山田純恵)
(記事ID:626)