カーイデ・アーザム(=偉大なる指導者)ムハンマド・アリー・ジンナーの在ラホール・ジンナー・ハウスでの滞在は僅か2時間であった
2023年05月17日付 The daily Jang紙

イスラマバード(調査報道:ハニーフ・ハーリド):-イムラーン・ハーン前首相逮捕の後、ラホール・キャントでデモ隊によって全焼させられた軍団司令官邸は、国家遺産として保存対象となっていた歴史的な古建造物であるのみならず、その重要性はパキスタン建国の父、カーイデ・アーザム・ムハンマド・アリー・ジンナーがラホールで購入した邸宅であった点にもある。ジンナー・ハウス、すなわちラホール・キャント地区にあるこの家屋敷は、かつてラホールの建築業界の大立者であったラーラー・シーヴ・ダヤール・セートの名義のものであったが、彼はその生前1935年にこの物件をハージャー・ナジール・アフマドに売却した。その後、後者はこれを自身の妻の名義に変更し、その妻がラーラー・モーハン・ラールに売却したが、1943年7月にジンナーがモーハン・ラールから16万2500ルピーで買い受けたものである。[ただ、]ジンナーがこれを購入した時点では、この邸宅は既にイギリス軍の借用に帰しており、その月々の賃貸料は形式的に5ルピーというであった。そのインド防衛法に基けば、イギリス軍は如何なる不動産も収用可能であった。ジンナーがこの屋敷を購入した時、軍の賃貸契約は期限を迎えていたが、軍は同法に基づきこれを延長した。1年半に及びジンナーとイギリス軍当局との間で書簡の往復が続いていたところ、[1947年6月3日]インド総督マウントバッテン卿から「6月3日の計画(=マウントバッテン裁定)」が出されたのである。イギリス軍当局が、ラホール・キャントの屋敷の所有者がパキスタンの初代総督が指名されていることを知ると、1947年8月1日、E.R.バース大佐はカーイデ・アーザムに書簡を送り、1947年8月31日までに同屋敷から退去するとの決定を伝えた。しかし、カーイデ・アーザムは私的に多忙を極め屋敷を引き取りに出向くことができず、1948年1月31日まで契約は延長された。パキスタン軍当局は、代替施設の取得までの同屋敷の使用許可を求め、これをカーイデ・アーザムは了承した。カーイデ・アーザムが自身の邸宅である在ラホール・ジンナー・ハウス・ラホールを訪れたのは1度だけであり、カーイデ・アーザムのボンベイ(=ムンバイ)、カラチ、ラホールの邸宅の中で、カーイデ・アーザムが1泊も宿泊しなかった唯一のものであった。パキスタン政府は十数年前まで、在ボンベイ・ジンナー・ハウスをインド政府からパキスタン総領事公邸として取得しようと懸命に働きかけたが、依然としてインド政府が押さえたままである。カーイデ・アーザムはラホールを訪れた際には、当時のファレッティーズ・ホテル18号室に滞在することを常としていた。1948年に彼がパキスタン総督としてラホールを訪れた際には、ラホール迎賓館に宿泊したが、彼はラホール・キャントにある自身の邸宅をその目で確かめるために僅かの間これを訪れ、自身の邸宅の書斎でパキスタン軍の幹部たちと茶を楽しみ、芝生をしばらく散策した。カーイデ・アーザムがその購入に執念を傾けたその邸宅に、彼の滞在はわずか1、2時間程度にとどまったのである。カーイデ・アーザムの死後、パキスタン軍は1950年2月18日、カーイデ・アーザムの姉妹、ファーティマ・ジンナー女史及びシーリーン・ジンナー女史に書簡(整理番号Q-3,561/28)を送り、その中で彼女らに月500ルピーでの賃貸を申し入れた。契約の締結後、現在の在ラホール・ジンナー・ハウスは第10師団総司令官公邸に当てられた。これ以降ラホール軍団司令官は、パキスタン建国の父の屋敷、ジンナー・ハウスに居住するという栄誉に浴しているという次第である。

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(翻訳者:川出航也)
(記事ID:1124)