福利の道を行く人間

2016年05月21日付 Prothom Alo 紙
私たちのこの世界で、宗教を信じる者たちには、救済を受けるための無数の機会、あるいは道がある。ごく単純に、端的に言えば、「何らかの宗教を信仰するならば、汝には永遠を享受する機会が存在する」と説明できる。すべての宗教に共通する究極の教えというのは、「至高の創造者が汝を創り出し、この世界に送りだしたのであり、その創造主に感謝し、信頼せよ」ということだ。すなわち、宗教とは神の存在を絶対的に信じることに他ならない。
しかし、神を意識しない、そんな宗教はないのだろうか。いや、そのような宗教は今も昔も存在する。それはゴウタマ・ブッダの宗教である。神について尋ねられたとき仏陀は答えた。「私は神を見たことがない。なれば私はそのものについて何が言えよう。私が知っているのは私のように肉体を持った人間のみだ。だから、私は人間の良し悪し、喜び悲しみといったことで心を悩まし、考える。すべての人々がどうすれば良くあれるのかという思いが私を急き立てる。生きとし生けるものすべてが幸せになるようにというのが私の唯一の願いである」。ゴウタマ・ブッダの宗教よりも古い宗教は現在おそらく世界にもうない。生あるものすべてが幸せになるようにという願いより素晴らしい発言はない。

バングラデシュで行なわれている宗教の中で仏教は極めて主要な宗教である。この地の最古の宗教でもあることも指摘しておかなければならない。私の個人的な友人にも仏教徒は複数いる。チョットグラムにいるベンガル人仏教徒は、あるいはクミッラにもいるのだが、その人たちの日常生活、日々の習慣はベンガル人ヒンドゥー教徒やベンガル人ムスリムと全く同じというわけではないということは明白である。もちろん多くの共通点はある。しかし、私が仏教徒たちの生活を観察して見えたのは、徹底的な奉仕の宗教を強く信奉していること、また人間の福利を抜きにしたいかなる思考も彼らを不幸にするということである。そのような思考を誰もすべきでないと彼らは考える。仏教徒はこうしたことを信仰し、それを実践しようと努力するのである。

ハヤト・マムド(文学者、教育者)


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翻訳者:宗優樹
記事ID:567