文学界の巨匠アッティラ・イルハン氏死去(Milliyet紙)
2005年10月12日付 Milliyet 紙
50年以上もの間トルコの文学界で確固たる地位を占め続けてきたアッティラ・イルハン氏が80歳で逝去した。「時は来る/アッティラ・イルハン死す」と語った詩人は、「手のひらに残るは悲哀...」とも書いた。
詩、小説、試論、脚本の書き手としてトルコ文学界で重要な地位を占め、文学、言語、知識人、社会主義、そして女性に関する著作で記憶に残る議論を展開したアッティラ・イルハンは、心臓病のため80歳で亡くなった。1925年6月15日イズミル県メネメン生まれのアッティラ・イルハンは、あるインタビューの中で自身の死生観について次のように語っていた。「死後の世界については信じていないので、死とは極めて単純な出来事です。すでに一度心筋梗塞を経験していますから、この先2度目の発作が起これば私はあの世に行くでしょうね」。
■逮捕された初めての高校生
アッティラ・イルハンはトルコで逮捕された最初の高校生であった。「初めて逮捕された高校生とは私のことです。まだ16歳でした。(中略)あの事件の後、印を押されたロバのようにイズミルのカルシュヤカではみんな私の家のことを知っていましたよ」と事件について語った。
当時イズミル・アタテュルク高校の生徒だったイルハンは、刑法141条違反で逮捕され、同校を退学させられた。その後、行政裁判所の決定により教育を受ける権利を取り戻すと、イスタンブル・ウシュク高校を卒業した。イスタンブル大学法学部を中退し、1949~65年の間の合計6年間をパリで過ごした。
アスム・ベジィルジ、ハサン・タンルクット、オルハン・ミュステジャビィと共にゲルチェック紙で活動したイルハンは、ソルボンヌ大学で映画学も学んだ。映画評論家としてトルコでジャーナリストとしてのキャリアをスタートさせ、1951年に書いた『ソカックタキ・アダム(Sokaktaki Adam=通りの男)』という小説は15年間結婚生活を共にしたビケット・イルハンによって映画化された。
■青派の潮流
さまざまな雑誌(「イェニ・エデビヤート(Yeni Edebiyat)」「ユジェル(Yücel)」「ゲンチ・ネスィル(Genç Nesil)」「フィキルレル(Fikirler)」「ヴァルルック(Varlık)」「アーイレ(Aile)」「イルミンジ・アスル(Yirminci Asır)」「セチルミッシュ・ヒキャーイェレル(Seçilmiş Hikâyeler)」「カイナック(Kaynak)」「ウフックラル(Ufuklar)」「マーヴィ(Mavi)」「イェディテペ(Yeditepe)」「ドスト(Dost)」「イェルケン(Yelken)」「アタッチ(Ataç)」「ヨン(Yön)」「ミッリイェト・サナット(Milliyet Sanat)」「サナット・オラユ(Sanat Olayı)」)で詩を発表していたイルハンは、「マーヴィ(Mavi=青)」誌において「青派」として知られる社会的リアリズムの潮流の主たる担い手となった。
また、デモクラット・イズミル紙に画報部門の発行責任者や新聞の発行人として8年間勤めた。CHP(共和人民党)の機関紙であるウルス紙でもコラムニストとして活躍したが、CHPを批判する文章を書いたという理由で解雇された。1973~79年の間、ビルギ出版社で編集者として活動した。イルハンは1982年3月2日から1987年11月15日まで本紙でコラムを執筆。1996年から2005年9月12日まではジュムフリイェト紙でもコラムを担当した。
イルハンの訃報に対しアフメト・ネジュデト・セゼル大統領、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相、ビュレント・アルンチトルコ大国民議会議長、CHP党首デニズ・バイカル、DSP(民主左派党)党首ゼキ・セゼル、ANAP(祖国党)党首エルカン・ムムジュ、アッティラ・コチ文化観光大臣がメッセージを発表し、追悼の意を示した。
現地の新聞はこちらから
原文をMHTファイルで見る
( 翻訳者:塚田 真裕 )
( 記事ID:1074 )