建前としての言論の自由:アルメニア人記者フラント・ディンクに6ヶ月の懲役(Radikal紙)
2005年10月08日付 Radikal 紙

新聞記者のフラント・ディンクは記事の中で“トルコ主義を破壊、侮蔑”したかどで6ヶ月の懲役に処せられることになった。専門委員会の見解は「罪ではない」。

アルメニア語とトルコ語で発行されているアゴス新聞の編集長フラント・ディンクは、ある記事において‘トルコ主義を破壊、侮蔑’したことで訴えられ、専門家委員会の反対にも関わらず6ヶ月の懲役に処せられることになった。ディンクへの刑の執行は「将来重犯罪をおかす可能性がないと予測される」という理由から猶予が与えられ、裁判所はもう1人の容疑者で編集責任者であるカリン・カラカシュのについては無罪の判決を下した。シシュリ軽犯罪裁判所?において行われ審問には、容疑者の弁護人と訴訟を起こした側の人間が参加した。シシュリ共和国検察庁によって準備された訴訟状は次の通りである。全8部の「アルメニア・アイデンティティについて」というテーマの連載において、同新聞は「アルメニスタンを知る」というタイトルの第8章で「トルコを破壊、侮辱する広報」を行った罪で、ディンクと編集責任者のカリン・カラカシュにそれぞれ3年の懲役が求刑された。

■専門委員会の意見は拝聴されず
裁判所が任命した専門委員会は統一見解として、該当記事は問題となった文章を含めすべてが調査されるべきであるとし、罪にはならないことを主張した。問題となったディンクの文章は次の通りである。「アルメニア・アイデンティティがトルコからの解放の道筋であったことは明らかだ。トルコ人と関わらない。新たなるアルメニア・アイデンティティの拠り所はすでに準備されていた。アルメニスタンと妥協することである。トルコ人から解放され、その毒された血の代わりとなるきれいな血は、アルメニア人のアルメニスタンにおいて生成される大動脈に存在していた。こうした人々の存在
を認識するがいい。この認識をすべきなのはディアスポラで各地に散ったアルメニア人ではなく。アルメニスタンの指導者である。アルメニア政府は責任があることを認識し、必要とされる手だてを取るべきである。」

■自分の意志に自信を持っている
判決に驚いたことを述べたディンクは次のように述べた。「私は自分の方法や意図を確信している。罰せられるようなことはない。私はアルメニア・アイデンティティについて書いているのだ。連載の前の章でディアスポラの状態にあるアルメニア人に呼びかけ、トルコ人への憤りを自身のアイデンティティから排除し、アルメニア・アイデンティティにマイナスに作用するトルコ人を意識しないように述べた。トルコのイメージを自身のアイデンティティから排除することで生じる空白は、アルメニスタンの存在によって埋めるよう提案した。ここで“毒された血”と言うのはトルコ人への敵対心を意味している。毒された血と言うのはトルコ人への憎悪によって汚れてしまったアルメニア人の血であり、それを吐き出すべきである、と言いたいのである。」
 アムネスティ・インターナショナルをはじめとしてあらゆる法的手段に訴えることを述べたディンクは次のように言葉を続けた。「もし高等裁判所、アムネスティ・インターナショナルともに私に味方してくれなければ私はこの国を棄てて行く。例え刑が6日であれ6年であれ変わりない。恥ずべき刑罰である。私にとっては拷問である。私はこの国でトルコ人とともに生きてきた。彼らの顔を恥じることなく見られるようでなければならない。この国はいつ、どこで、何が起こるか未だにわからない。アルメニア会議を妨害した裁判所が、私を罰するのは当然と言えよう。司法と言われるシステムがどこまで法的であり政治的であるかを議論する必要があるだろう。これは今後の私の言論の自由を妨害するものであろう。しかし私は今後も話し書き続ける。

■もう一つの裁判
ディンクについては、2002年にシャンルウルファでのパネル演説に対して起こされたもう1件の裁判がある。トルコ刑法第159条「トルコ共和国の精神的特質をトルコ主義を破壊、侮辱」したかどで、3年の求刑がなされるきっかけとなった発言は次の通りである。「子供の頃からあなた方と一緒に(トルコの国歌の)独立行進曲を歌ってきました。しかし最近気になる点があり、その部分に来ると沈黙し、しばし後で再び一緒に歌い出します。その部分とは‘英雄の我が人種に一輪バラを’のところです。人種。英雄。一体どこが英雄であろうか。私たちは国民同胞の概念を国民的な一体性と英雄的な人種をもって支えようとしてきました。例えば‘勤勉な我が民衆に一輪のバラを’というのであれば、私は誰よりも大きな声で歌うところです。しかしそうではありません。確かに私はトルコ人です。勤勉であり、私はそんな自分の勤勉さが好きです。‘トルコ人’という部分は‘トルコ国民’と解釈するようにしています。





********************本記事への解説********************
 オスマン帝国末期にアルメニア人への大虐殺が行われたことはしばしば指摘されるが、トルコ政府は一貫してこれを否定、あるいは犠牲者数を少なく主張してきた。今回ボアズィチ大学(国立)とサバンジュ大学(私立)は共同で、この歴史と向かい合う学術会議を計画した。本来なら会議は5月に行われる予定で、海外からも多くの研究者が招聘されていたが直前に裁判所の命令によって延期となった。両大学は規模を縮小して9月に再度開催を試みたが、それも開催前日に延期命令が下されたため、ビルギ大学(私立)が会場を提供し開催にこぎ着けた。この会議実施に際し、トルコ民族主義者はもちろんのこと、トルコ労働党など左派右派双方から激しい反発が起きた。エルドアン首相はこの会議について「民主主義では言論の自由が保障される。」「歴史から教訓を得なければならない。」等と述べている。
 今回判決を受けたフラント・ディンクはトルコ育ちのアルメニア人で、アゴラ新聞の編集長である。ディンクはこの度の学術会議でも演説を行い、当局から目を付けられていた。現在でもイスタンブルには多くのアルメニア正教徒(アルメニア人)が居住し、アルメニア正教会や民族学校も存在するが、トルコとアルメニアの関係は依然悪く両国の間には未だに国交がない。アルメニア問題はクルド問題とはまた別の点でトルコを悩ませる問題である。(文責:大島 史)

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( 翻訳者:大島 史 )
( 記事ID:1032 )