メネメン事件の犠牲者クビライ少尉の追悼式典、没後75周年を機に開催(Milliyet紙)
2005年12月24日付 Milliyet 紙

革命の犠牲者クビライ少尉の追悼式典には5000人が参加した。民族主義者行動党からも県支部長が参加した式典には、(同じく右派の)理想の炉辺からの参加者の姿もあった。

イズミルのメネメン郡でハサン・フェフミ・クビライ少尉の死後75周年を機に開かれた追悼式典へ約5000人の人々が参加し、故人をしのんだ。
駐屯軍指令本部、メネメン郡長、メネメン市長の共催で開かれた式典には、共和人民党のデニズ・バイカル党首のほか、オウズ・カアン・キョクサル知事、エーゲ軍司令官のフェトフィ・レムズィ・トルンジェル陸軍大将、南海地区司令官のアレブ・ギュムシュオール海軍大将、イズミル大市役所のアズィズ・コジャオール市長、20人の共和人民党選出国会議員、シシュリ市長ムスタファ・サルギュル、人民向上党党首ヤシャル・ヌリ・オズチュルクも出席した。

■クビライの子孫も列席

今年の式典には民族主義者行動党からも県支部長が参加した一方、理想の炉辺からの出席者もあった。
式典にはクビライ少尉の義理の娘のミュゼイェンとアイセル・クビライ、孫のムスタファとケマル・クビライ、孫の孫のアクトゥー・クビライも列席した。
「世俗主義と民主主義の行進」のためにメネメン駅に集まった約5000人の人々はトルコ国旗と共和人民党の旗を持って午前9時30分に1.5キロメートル先にある軍管理地区内のユルドゥズテペに向かって進み始めた。同党のバスでイズミルからメネメンにやって来たバイカルも行進の一部に間に合い参加することができた。

■世俗主義堅持に決意新た

共和人民党党員でメネメン市長のターヒル・シャーヒンが、式典でイズミルの全ての共和人民党系の郡の首長が出席したにもかかわらず、サルギュルのみに挨拶したことが注意を引いた。
砲撃手のオズカン少佐は「クビライ少尉、死後75周年を機に再度御前でお約束します。私たちはあなたがお守りになった精神(世俗主義)に挑戦するあらゆる危機を乗り越えていくことを」と述べた。

■“不信心者の街”プラカード

イズミルのアドナン・メンデレス空港で多くの党員に迎えられたバイカルは「“不信心者の街(=先駆的な、革新的なの意)”イズミルへようこそ」と書かれたプラカードを掲げさせた。バイカルは「イズミルが占領された時、ダマット・フェリット・パシャ内閣の法務大臣は「国家計画に沿っている」と言い、シェイヒュルイスラムも「(アタテュルク率いる)国民軍は、不信心者だ。従わないように」と言っている。イズミルは、トルコ国民のアイデンティティの最も根底にあるよりどころの一つなのだ。私はイズミルを守るためではなく、いつでもイズミルのそばにいるということを明らかにするために来たのだ」と述べた。


※メネメン事件

1930年12月23日に、当時イズミルで兵役についていた青年ムスタファ・フェフミ・クビライがシャリーアを求める人々によって殺された事件。共和制下1925年のシェイフ・サイトの乱についで重要な政治反動事件。クビライは革命の犠牲者の象徴として知られる。別名クビライ事件とも呼ばれる。

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( 翻訳者:藤巻 晋也 )
( 記事ID:1580 )