アルメニア系シャンソン歌手シャルル・アズナヴール氏語る(Radikal紙)
2005年06月07日付 Radikal 紙

フランスの伝説的歌手シャルル・アズナヴールの回顧録がトルコ語に翻訳された。81歳のアルメニア系の歌手は語った。「トルコ人の若者の肩にかかる荷はとても重いが、彼らを重荷から救い解放しなくてはなりません。」

マフムート・ハムスィヂィ(イスタンブル発)

世紀の大音楽家のひとりシャルル・アズナヴールは、その人の心に訴えかける作品と、家族がトルコからの移住者であることで、一時期トルコで最も愛された外国人歌手のうちの一人であった。

我々のような80年以降の世代が、彼の曲で話がもちきりであった時代に成長したわけではなくても、少なくとも『ラ・ボエーム』や『帰り来ぬ青春』は知っていたし大好きだった。アズナヴールの名がトルコで最近話題の的になったのは、彼の歌曲に関してではなく、彼が出演した映画『アララトの聖母』に関してであった。アズナヴールがアトム・エゴヤンの映画に出演したことは、トルコにおいて一部から激しい非難を受け、アズナヴールには正真正銘トルコの敵というレッテルが貼られた。アズナヴールがアルメニア人強制移住問題に関してトルコ世論とは異なった考えを持っていることが真実であるにせよ、主張は全く逆であり、あらゆる意味において彼はトルコ人の親友なのだ。恐らく、彼は、この件に関する彼の考え方を『あるトルコ人の友への手紙』という詞の中でとてもうまく表現していた。

   断ち切ることができないときみが決めたのなら
   僕の心に巻きつく蔓はきみの足にも
   何も無くなって、行くのさ
   きみも僕も
   自由になったんだ、兄弟

まさしくアルメニア人強制移住問題に関して議論が活発なこの時期にアズナヴールの回顧録『過去はこうだった』がアラス出版社からトルコ語で出版された。『タイム』誌によって世紀のアーティストに選ばれ表紙を飾ったアズナヴールは、著作がトルコ語で出版されることを記念して本紙が依頼した取材に応じ、トルコに対して語った。

マフムート(以下M):『あるトルコ人の友への手紙』というとても.素晴らしい詞がありますが、この詞について少しお話くださいますか?この作品はトルコの人々に対して書かれたものでしょうか、あるいはあなたの特定の友人に対してのものですか?
シャルル(以下C):トルコの人々に対してのものです。ただ、同時に私に友がいました。とてもいい友でしたが、交通事故で亡くなったのです。トルコ人で、彼とは兄弟同然でした。でも最終的にはトルコの人々を意識していました。ただ、とりわけトルコの政治家を意識していました。何故なら、普通の人々というのは世界のどこでもそうであるように、ある事柄について彼らより知る情報は少ないものですから。

M:ご家族についてお話しいただけますか?
C:家族全てがトルコ出身ではなく、母方がトルコ出身、父方はグルジア出身です。

M:御母上はトルコ語をお話になりましたか?
C:私の母はトルコ語を喋っていましたし、アラビア文字でトルコ語を書き、また読んでいました。但し、母にとってのトルコ人らしさは、私にとってのフランス人らしさのようなものでした。私が自らのことについて述べる際には、フランス在住のアルメニア人であるとは言わず、アルメニア系フランス人であると言います。つまり母も、アルメニア系のトルコ人でした。

M:トルコにいらっしゃったことは?
C:トルコへは2度訪れたことがあります。(最初は)歌手として駆け出しの頃で、タクスィムのカジノで歌いました。

M:いつごろでしたか?
C:50年ほど前のことです。ヒルトン・ホテルがまだ建設されたばかりでした。(笑)2度目は、友人を訪ねたのです、彼は何処だったかに住んでいたのですが、場所の名前が今思い出せません。彼と一週間過ごしました、なにしろ、とてもいい友達同士でしたから。

M:再度訪れる予定はありますか?
C:仮にトルコ政府が私を招聘することがあったら訪れます。トルコ人がとは言いたくないですね。何故なら、招聘を左右し決定するのは政府ですから。トルコ政府が相応しい理由で私を招聘しようと考えるなら、訪れます。トルコへは、映画祭や音楽関係の仕事などで何度となく招聘されます。いつも同じように答えますよ、公式に招聘されれば伺います、と。でも、(実際にそうなれば)喜び勇んで伺います。というのも、厭々行くわけではないですから。トルコはとても好きな国のひとつですから、行きますよ。

M:何か付け加えることはありますか?
C:私の思いはすべてうまくお話できたと思います。ただ、一言申し上げます。アルメニア虐殺に関して、トルコに人々はアルメニア人の子供たちを(統計に)加えるべきです。たとえ150万人のうち5万が考慮されたにせよ、その5万人がとるに足りない人数だというわけではありません。つまり、あなたがたにせよ我々にせよ、トルコにおけるアルメニア人の現実は存在するのです。あらゆる折に、我々はあなたがたと交じり合っていましたし、あなたがたも我々と交じり合っていました。もう一言申し上げます。私を観に来てくれたトルコの若い人たちには、「今日は、アルメニア人もトルコ人もよく耳を傾けてください。自らの理性を駆使して自らの思考を作り上げてください。」と話すようにしています。私がトルコ人の友達とどうしてあれほど親交を結べたのでしょうか。母をトルコの彼女が若かりし時を過ごした場所へ連れて行きました。すると母は「マミー(お母さん)」と言ったのです、何故でしょうか?よく知ろうとし、理解したからなのです。私はトルコの若い人たちに、学ぶためには手を尽くして知ろうとすることを勧めます。何故なら、彼らの肩にかかる荷はとても重いのです。荷を背負い込んでいるのは我々ではなく、あなたがたなのです。この重荷を解消し、若者を自由にしなくてはなりません。


■「政治的デモには参加しません」

M:あなたも出演された、アトム・エゴヤン監督の映画『アララトの聖母』は、政治的で反トルコ的であるとして、トルコでは非難を浴びました。
C:そうおっしゃっても、これは政治的な映画ではありません。政治色のある映画なら出演しませんでした。ご存知ですか?私にはクルド映画のオファーもあったのです。私は断りました。何故ならそれは政治的な作品だったからです。一度たりともトルコの人々の気分を害するようなことはしません。

M:あなたは毎年4月24日に開催されるアルメニア人虐殺記念デモには参加されていないようにお見受けしますが?
C:ええ、芸術関連のデモには参加しますが、政治的な内容を含んだデモには参加しません。

M:最近のアルメニアとトルコの人々の関係は僅かながらも好転していると言えるでしょうか?
C:恐らく、おっしゃるとおりです。1915年は、双方の民衆にとってのタブーではなく、双方の政府にとってのタブーなのです。もし、政府がこの件に関して扉を開け放ち、一歩を踏み出すのなら、フランスに住むアルメニア・ディアスポラの名の下に申し上げます。アルメニア人は虐殺の認定を望んでいるだけなのです。我が家族の住まいや土地を望んでいるわけではありません。アルメニア首相も私と同じように考えているのです。机をはさんで腰を下ろし話し合われる時期がやってくると思っています。恐らく話し合いは公式には始まらないでしょう。私のような人々によって始められ、そのあとは他の誰かによって始められるのです。「他の誰か」とはアルメニア共和国のことであって、ディアスポラのアルメニア人ではありません。というのも、ディアスポラの人々は幾つかの問題に関しては考えが一致しないでしょうし。アルメニア人ディアスポラとトルコの間で、ではなく、アルメニア共和国とトルコ共和国との間でこそ、幾つかの問題が正常化されるべきです。

(トルコ人とアルメニア人)双方はよく似通った人々だと思っています。生活習慣は同じですし、食べ物も同じですし、その他だって・・・にもかかわらず、何故なのでしょう?我々を隔てるものは何ひとつありません。唯一、過去が我々を隔てているのです。この過去を清算する試みに取り掛からなくてはなりません。そしてこれはあなたがた次第なのです、私たちではないのです。簡単なことだと言っているのではありません。そのことは十分承知しています。しかし、ちっぽけな努力であっても、いい意思表明がなされれば、と思います。この問題は、アルメニア人ディアスポラがフランスにおいて重要であるだけに、トルコのEU加盟にとっても重要なものとなるでしょう。


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( 翻訳者:長岡大輔 )
( 記事ID:179 )