第二共和国におけるアーバードギャラーン連合の支配
2005年06月28日付 Sharq 紙

2005年6月28日付シャルグ紙1-2面

訳注1:グーチャーニー氏による以下の論考で用いられている「保守派」・「右派」/「改革派」・「左派」ということばは、人権や外交といった領域におけるいわゆる「タカ派」/「ハト派」を指し示しているのではなく、経済政策上の「自由経済派」/「統制経済派」の(大雑把な)対立を主に指していると思われるので、注意ありたい。とはいえ、必ずしもそれだけとは限らないと思われる箇所も多い。

訳注2:ここで用いられている「原理主義者」とは、「イラン・イスラーム革命の《原理》に忠実な者」という意味で用いられていることばで、いわゆる「イスラーム原理主義」ということばとは趣が異なるので注意ありたい。




モハンマド・グーチャーニー

 1384年ティール月3日〔2005年6月24日〕は、イランにおける四半世紀にわたる保守派の「政府」樹立への願望がついに成就した日である。メフディー・バーザルガーンからモハンマド=アリー・ラジャーイー、モハンマド=ジャヴァード・バーホナル、ミール=ホセイン・ムーサヴィー、アクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニー、そしてセイエド・モハンマド・ハータミーに至る、この日までイランに成立したいずれの政権も、《保守派》とは呼べないものであった。しかし、果たして六人目の大統領であるマフムード・アフマディーネジャードは《保守派》のなのであろうか。この質問に対する政治の専門家たちの回答は否定的なものだ。その上で彼らは再度、イランの歴代の政権が保守派ではなかったことの本質に関する理論を証明してみせる。彼らは実際、アフマディーネジャードを《原理主義者》と呼ぶべきだと主張しており、アフマディーネジャード自身《保守派》という性格付けよりも、この言葉を好んでいるのである。

 マフムード・アフマディーネジャードは、大統領の座を射止めてから初めての記者会見で、自らがいかなる政党(特に保守派政党)も代表する人物ではなく、アーバードギャラーンという非政党的な、しかしきわめて強力な連合体の設立者・指導者の一人にすぎないと語った。この連合体は現在、三つの重要な国家機関、すなわち全国のさまざまな地方評議会及び市長、第7議会、そして新政権を掌中に収めており、他の権力機関にも影響力のあるプレゼンスを有している。過去27年間、いかなる政党もこのような広範な力を手にしたものはなく、イスラーム共和党でさえ、さまざまな政治勢力の集合体として、またイマーム・ホメイニーに忠実なあらゆる勢力の代表として、60年代〔西暦で1980年代〕に三権を掌握していたにすぎない。このイスラーム共和党という連合体は、程なくしてバラバラになり、現在の党派の骨組みを形成することとなったのである。

 しかし、アーバードギャラーン連合はイスラーム共和党ほど簡単に解体されることはないだろう。というのも、この連合体の形成過程は、見た目とは反対に、保守派の寄り合い的な動きから生まれたというよりはむしろ、《原理主義者たち》による完全に党派的な活動の積み重ねから生まれたからである。《原理主義者たち》は「右でもなければ、左でもない」ことを自任している。彼らは、社会的観点から見れば、左右両端から構成されており、政治的観点から見れば、左右両派の境界線上を行き来している。彼らは保守派からは《伝統主義》を、改革派からは《近代主義》を借り受けており、政治経済の領域では、一方で自由経済の大義を主張し、他方で市場における政府の広範囲な役割を擁護している。

 イスラーム革命へとつながっていく四半世紀にわたるさまざまな因果関係の後に生まれた、イランにおける《原理主義》運動の出現の経緯について、ここで概説しておこう。

 1358年(1979年)のイラン・イスラーム革命は、イラン社会の伝統的中産階級と下層階級が、モハンマド・レザー・パフラヴィー時代の近代化政策に一体となって反対したことで生まれた。モハンマド・レザー・パフラヴィーは、石油国有化運動が頓挫した後、イランに政治的妥協や交渉を排除した借り物の発展をもたらそうと努力した。こうして生まれた新中産階級は、体制、特に1340年から1357年〔1961年から1978年〕にかけてのモハンマド・レザーの最重要施策に対して、忠順であった。この17年間、封建地主や知識人たちが排除されたことで、イラン社会に、《テクノクラート》、あるいは《ビューロクラート》を自称し、《進歩クラブ》といったグループに集う、新たなエリートが誕生したのである。

 社会各層の支持を集めることができなかったパフラヴィー体制は、国家ブルジョワジーなるものを作りだそうとしていた。この階層は、一方で国民ブルジョワジー(石油国有化運動に参画した知識人たち)の後継者として、他方で白色革命によって自らの権力を失った封建地主に取って代わるかたちで、自らの地位を築いた。官職に対して日増しに増大する特権、官僚機構の肥大化、政府役人に対する社会的ステータスの上昇、これらはイランにおける国家ブルジョワジーの発展を示す、最も重要な表徴である。大学はこれらの人材の教育に力を注ぎ、政府の省庁は彼らを採用した。

 このような動きに対して、伝統的中産階級(バーザール商人や宗教指導者たち)は自らの文化的価値が危険に晒されていることを感知していた。新たな階級は、ヘジャーブや服装に始まり政治や経済に及ぶ、新たな倫理を育んでいたのである。他方で新中産階級(政府の官僚機構)の安逸にして高慢な倫理は、社会の下層に生きる人々を疎外するものでもあった。彼らは経済的な貧困の下で、生活への不安を胸に暮らしていたのである。2月11日の政変と新国家の樹立は、こうしてこの二つの文化的・経済的不満が組み合わさることで起きたのであった。

 革命の勝利には、もちろん、既存の体制に対する極度の不信のなかで、革命に有利に働いた、ある変数が存在していたことも事実である。この変数とは、一部の新中産階級である。政府機構の下で成長を遂げていた彼らは、それにもかかわらず、ファラオの宮廷におけるモーセの如く、モハンマド・レザー・シャーに対して反旗を翻したのである。

 彼らはシャーの体制に対する政治的不満を代表していた。彼らがイランの政治的発展に失望したとき、彼らはイスラーム革命に与することになったのである。革命の勝利の後、《被抑圧者》として知られていた社会の下層に生きる人々は、新中産階級とともに、速やかに権力を掌握し、次第に伝統的中産階級を政府(特に内閣)から排除していった。もし50年代〔1970年代〕が、伝統的中産階級と下層階級が新中産階級に対して闘った時代であるとするならば、60年代〔1980年代〕は下層階級が新中産階級に合流して、伝統的中産階級に相対した時代であると言える。

 このような接近が生じた第一の原因は、新中産階級が人々の政治的要求に耳を傾けたこと、また国家機構において行政経験を有していたことが挙げられる。さらにイスラーム共和国の創建者ホメイニー師のパーソナリティーも、この同盟を成功させた主要因となっている。それによって、新中産階級に属していながらも、下層階級の擁護を自らの信念とする人物〔注:ムーサヴィー元首相のことを指していると思われる〕が首相に就くことが可能となったからである。

 この時期の新中産階級の政治的傾向は、左派的なものであった。と同時に、ある意味で、この階級はいまだ国家機構から生活の糧を得ることで生活をしていた、国家ブルジョワジーであったとみなすこともできた。それに対して、伝統的中産階級は、依然として右派的傾向を有し、国家から独立したかたちで自らの命脈を保っていた。しかし時代が下るにつれ、新中産階級は右派へと転向していった。ソ連邦崩壊やイラン・イラク戦争の終結といった国際状況の変化と時を同じくして、新中産階級はアクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニー政権内で、既存秩序の維持を支持する勢力へと変化し、自らの革命的精神を失っていったのである。彼らエリートたちは、セイエド・モハンマド・ハータミー政権内においても、自らの存在を維持し、〔ラフサンジャーニー政権からハータミー政権までの〕16年間、伝統的中産階級とは一線を画し、さらには下層階級からも独立した連合体を束ね、後半の8年間〔注:ハータミー政権時代〕も自らの政治的要求をほとんど変えることなく、政府機関をのぞいては中産階級のまとめ役となるような機関など想像だにしない〔ほど政府に自らの生計を依存した〕国家ブルジョワジーを代表していたのであった。それと同時に、大衆や社会の下層に生きる人々の信頼を手にいれようとする伝統的中産階級のあらゆる努力もまた、目に見える成果を挙げることなく、改革派から保守派への権力の移動の可能性を見出すことはできずにいた。

 このようななかで、その他の発展途上国と同様、右派と左派の政治的閉塞の結果生まれたのが、〔原理主義という〕政治的潮流であった。原理主義者たちは、当初保守主義者たちの支援を受けて表舞台に登場したが、初めから保守主義からの独立を視野に入れていた。1381年エスファンド月〔2003年2-3月〕は、原理主義者たちの力が初めて示された時であった。全国の地方議会選挙での争いは、きわめて開かれたものであったが、投票率はそれほど高いものではなく、原理主義者たちは少しの票で全国の地方議会及び市長職へのキップを手に入れることができたのである。イラン・イスラーム・アーバードギャラーン連合の勝利を呼び込むことになる初めての候補者リストは、今から4年前に、マフムード・アフマディーネジャードの人目につかぬ活躍によって秘密裏に作成され、右派の著名人の代わりに新顔の革命的保守主義者たちを含むものであった。そしてその後、きわめて簡単な合意によって、アフマディーネジャードがテヘラン市長に選ばれたのであった。

 当初伝統的保守主義者たちから不評を買いながらも用いられたこの手法は、より首尾一貫したかたちで、第7議会選挙においても繰り返された。地方議会選挙及び国会選挙でのアーバードギャラーンの候補者リストでは、いずれも古株よりも新顔が多く名を連ね、また宗教関係者たちの存在はきわめて抑えられたものとなった。さらに事態は、イスラーム連合党の機関紙がハビーボッラー・アスギャル=オウラーディーやアサドッラー・バーダームチヤーン〔注:イスラーム連合党はバーザールを支持基盤とする保守派の政党で、アスギャル=オウラーディー及びバーダームチヤーンはいずれも同党の重鎮〕がリストから排除されたことに不満を口にし、保守派の指導者たちによって《容認できぬ最善よりも容認できる次善》の理論が支持されるに至る。これは、素性の知られていない原理主義者ではなく、よく知られた保守派を求めたものと解釈すべきであろう。

 大統領選挙が近づくにつれ、アーバードギャラーンと保守派の関係はより密接なものとなっていく。伝統的な保守派はこのときも、大統領職を若輩の同胞たちに委ねることをよしとはしなかった。《イスラーム革命諸勢力調整評議会》〔注:保守派陣営が大統領選挙で統一候補を選出するために立ち上げた委員会〕の最初の案では、アリー=アクバル・ナーテグヌーリーによって、ヴェラーヤティー〔元外相〕とラーリージャーニー〔前イラン国営放送総裁〕がアフマディーネジャードやタヴァッコリーに優先されるとの方向性が示されていた。このことをよく理解していたアフマディーネジャードは、最初から調整評議会への出席を控えていたのである。その後程なくして、調整評議会は、なぜ保守派の人物からのみ人選をするのかとの非難に直面した。この非難の意味は、ヴェラーヤティーが候補者として排除されたことで明らかとなった。しかし、若手の右派が期待していたのは、それ以上であった。原理主義陣営と共通の戦略を築こうとしていたラーリージャーニーの努力も実らずじまいであった。そこに突然、1384年のノウルーズ〔注:イラン暦の正月で、2005年3月21日にあたる〕を目の前にして、新たな名前がリストに加わった。モハンマド=バーゲル・ガーリーバーフその人である。彼はアフマディーネジャードと同様、保守派陣営から自らを峻別していたのである。

 保守派陣営はしかし、ラーリージャーニーで固まり、信念を同じくする同氏の立候補を取り下げるつもりはない旨宣言した。原理主義陣営もまた、ガーリーバーフとアフマディーネジャード間の選択に迫られており、どうやら選挙直前の水曜日になって、アフマディーネジャードがガーリーバーフに打ち勝ったようである。ガーリーバーフは改革主義者からの批判に晒されていた一方で、アフマディーネジャードは喧騒や批判から離れたところで、心安らかに権力へと近づいていったのである。ガーリーバーフは多くの理由から、原理主義陣営にとって適切な選択ではなかった。もし伝統的右派と革命的右派の間で何らかの合意がなされたならば、あるいはハーシェミー・ラフサンジャーニーが保守主義者たちのゲームに参戦していたならば、ガーリーバーフを候補者として選択することもありえたかもしれない。しかし、原理主義陣営が選ぶ候補者は、新中産階級の票を掴むこと(ガーリーバーフはそれを狙っていた)ではなく、下層階級の票を引き寄せる必要があったのであり、この仕事にとって適切な候補者は、マフムード・アフマディーネジャード以外にはあり得なかったのである。

 アフマディーネジャードの勝利は、改革派陣営の敗北のみを意味するものではない。もしアフマディーネジャードを保守主義者に数えないならば、保守派陣営もまたこの戦いの勝利者ではなかったと言わなければならない。中道的で政治的合理性を旨とする思想としての保守主義は、選挙戦での自らの独自候補者として、アリー・ラーリージャーニーを擁立したが、大統領の地位を射止めることはできなかった。それに対して、ラディカルで政治的変化を信念とする思想としての原理主義は、アフマディーネジャードを自らの独自候補者として選択した。アフマディーネジャードは、国の運営のあり方に一つの革命を起こすことを約束している人物である。

 現在行政を担っているのは、過去24年間(ムーサヴィー、ハーシェミー・ラフサンジャーニー、ハータミーの各政権)に、さまざまな地位の変化を被りながらも、つねに確固たる隊形を維持してきた者たちである。彼らは今や、深刻な変化に直面している。

 アフマディーネジャードは、イランの国政を担ってきた階層を一から編制し直し、国家ブルジョワジーの代わりに、市政において日の目を見ることのなかった脇役たちや社会の下層に生きる人々から生まれた潮流を権力の中心へと近づけるような政策を採ることになるだろう。同時に、伝統的中産階級は依然として、政府に入り込むことはできないだろう。すなわち、たとえ内閣の椅子をいくつか手に入れることが可能であるとしても、政府を運営する地位はアーバードギャラーンの掌中に握られることになるだろう。アーバードギャラーンはこの新たな階層の代表として、現在イランの与党としての地位を占めている。地方評議会や市長職の大部分、国会、そして政府はこの集団の掌中にあり、連合的で一枚岩的な政権を確立することになる。このような連合政権によって、政府は障害をまったく感じることなく、望むこと、そして可能なことはすべて実行することになるだろう。そして、モイーンやラーリージャーニー、キャッルービー、ハーシェミー・ラフサンジャーニーといった候補者を支持した新旧の中産階級は、宗教的・世俗的エリートたちとともに、政権の中枢から脇へと追いやられることになるだろう。

 4年前、若き原理主義者たちの長老格にあったアフマド・タヴァッコリーは、いまだ第一共和国が終焉を向かえていないときにすでに、セイエド・モハンマド・ハータミーとの大統領選挙戦で、「第二共和国」を自らの選挙スローガンに選んでいた。第一共和国において国政を司っていたのは、ムーサヴィー政権やハーシェミー・ラフサンジャーニー政権、そしてハータミー政権でともに閣僚の地位にあった者たちであり、いずれも新中産階級に属し、徐々にイランの国政を司る排他的サークルを築いていった者たちである。

 第二共和国の到来を示す徴は、第一共和国から国政の運営者を選ぶ際に起こる革命によって、はっきりとするであろうが、この兆候はすでに、モハンマディー・エラーギーやモハンマド=アリー・ザム、モフセン・ラフィーグドゥースト、アリー・ラーリージャーニーの後継者として、イスラーム宣伝庁長官にホッジャトルエスラーム・ハームーシーが、芸術協会会長にハサン・ボンヤーニヤーンが、被抑圧者財団総裁にモハンマド・フォルーザンデが、そしてイラン国営放送総裁にエッザトッラー・ザルガーミーが就任したこと、そしてその後、国民選出機関に関しては、メフディー・チャムラーンがテヘラン市議会の議長に、ゴラームアリー・ハッダード=アーデルが第7議会議長に就いたことに表れていた。そしていま、マフムード・アフマディーネジャードが大統領になったのだ。今後、国政を運営する高位の官職に就く者たちは、政府各省庁において大規模に入れ替えられ、行政革命が起こることが予想される。

 いまや、第一共和国終焉とともに、正式に第二共和国が始まった。それは、新たな行政官僚による革命的共和国であり、改革派(参加戦線であれ、建設奉仕者党であれ)に属するものでもなければ、保守派(ハーシェミー・ラフサンジャーニーであれ、ナーテグ=ヌーリーであれ)に属するものでもない、原理主義者たちに属するものである。この第二共和国の長となるのは、マフムード・アフマディーネジャードその人である。

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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:343 )