ビュレント・エジェヴィト亡くなる (Yeni Safak紙)
2006年11月06日付 Yeni Safak 紙
ビュレント・エジェヴィト元首相が、昨夜ギュルハーネ軍事医学校病院で亡くなった。ミュジャヒト・ペフリバン医師が、彼の死亡を報告した。5月18日に脳内出血で病院に運ばれたエジェヴィト元首相は、長期間に渡る治療の後、呼吸不全のため循環機能が停止し、22時40分に息を引き取った。
トルコの政界で「英雄」として知られ、「第三の男」に似つかわしいとされたエジェヴィトは、ここ半世紀のトルコ政治において名を印した象徴的人物の一人だった。トルコ政治に「白い鳩」や「青シャツ」現象をもたらした彼は、「詩人」としても知られていた。
エジェヴィトは、1925年5月28日にイスタンブルで生まれた。イスタンブルにあるアメリカ系(ロバート・)カレッジを1944年に卒業し、大学に進学する一方で、メディア・出版総局で、英語の翻訳者として仕事を始めた。同級生であるラフシャン(・アラル)と1946年に結婚した彼は、大学を中退し、ロンドンで大使館付き公報として務め、その後数多くの雑誌や新聞に記事を書いた。
1957年10月27日に共和人民党(CHP)アンカラ選出の国会議員として政界に参入したエジェヴィトは、1961年から1965年までイノニュ政権下で労働大臣を務めた。1972年5月5日の党大会でイノニュに勝利を収めた彼は、1973年の総選挙以降政界の「英雄」として知られるようになった。国民救済党(MSP)と連立を組んで、1974年2月6日に初めて首相の座に就いた。キプロスへの軍隊派遣・占拠において、重要な役割を果たした。(1980年)9月12日以降、11年間議員活動を停止したエジェヴィト元首相は、(夫人の)ラフシャン氏が創立した民主左派党(DSP)に移った。元首相は、5度首相を務め、3度の軍事クーデターを経験した。エジェヴィト元首相は、(2002年)11月3日に政治を離れた。
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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:3854 )