ストックホルムで感動的なノーベル賞授賞スピーチ(Radikal紙)
2006年12月08日付 Radikal 紙

ストックホルム ― オルハン・パムクは、ノーベル文学賞(受賞)に最高に感動的で、作家生活と彼の過ごした社会に関する見解を開陳したスピーチで応えた。スウェーデン・アカデミーの会議室ホールに居並ぶ世界各国の聴衆がどれくらい感動したのかはわからない。

しかしこのスピーチはトルコから来た人たちに少し自らのことを顧みさせ、かなり影響したことは明らかである。出口では、トルコから来た人たちは彼らの父親や自分自身のことを話していた。

スピーチの一時間前に開場されたホールは、時間が近づくにつれてみごとに満席になった。トルコの新聞記者たちは、典型的な19世紀をイメージしたホールにとって、控えめと思える場所で空いている席に着いた。

スウェーデン時間でちょうど17時30分に、当該ノーベル(賞の選考委員)幹事役のホーラス・エングダールがホールの中心に設置されている演台についた。エングダールは、政治的なスピーチを行なう、エルフリーデ・イェリネクのような以前の文学賞の受賞作家たちを紹介しスピーチを始めた。「作家は語る必要のあることを語る。必要なければ語るべき何事もなかろう。だからなんでも好きなことを話してください。オルハン・パムクも、自分に必要だと思ったことを語るでしょう」と締めくくった短い紹介についで、オルハン・パムクは長い拍手を浴びて中心の演台に上った。

聴衆の手には、3,4言語への翻訳が入り口で配布されたスピーチ本文があった。私たちトルコ語を知っている者たちは、その資料を見ずにまっすぐノーベル文学賞を受賞した作家の顔に眼差しを注ぎ、話す内容を聞きながら、話を最大限楽しむ恩恵にあずかっていた。ちょうど2年前のフランクフルトの平和賞式典の時と同様に・・・。

■「世界の中心はイスタンブル」

オルハン・パムクのスピーチは、自分自身の文学の軌跡をたどるというすぐれたものであった。今一度、自らの軌跡を説き明かした。スーツケースの中から何が飛び出すかを気にしている人たちの関心をそがないように、聴衆が聞いた物語は、適宜、文学やそれと関わる社会についての彼の見解を入れた、訴えるところのあるスピーチであった。確かにこのスピーチの最も重要な面は、文学上最も扱われるテーマのひとつである、ドストエフスキーからカフカ、オルハン・ケマルからクッツェーに至るまで、著名な作家に影響を及ぼした父と息子の問題がもられたことであった。

オルハン・パムクは、イスタンブルという著作上で長々と語った、自己肯定的で、少し無頓着で快活な自らの父親を、今一度文学上の父親と息子の問題と絡めて口にした。しかし今回は父親の存在で各人の父親を顧みさせて話しを始めた彼は、隠された葛藤に触れるため彼の知られざる作家生活を明らかにした。

スピーチのキーワードは「忍耐」であった。オルハン・パムクは、一ヶ月前、ノーベル文学賞受賞を「信念を持って続けてきた30年間に及ぶ作家生活の営みへの報い」という言葉で表現し、今回も作家の孤独、仕事への没入、経験したつらさ、内面の中のもう一人の自分を見つけるのに努めたこと」を私たちに伝えた。こうしたことを(世界の)「外縁」周縁にとどまった、とりわけ芸術、作家に敬意を払わない国で経験したことの、厳しい面についても言及した。

しかし話しを「私にとってすでに世界の中心はイスタンブルです」と続けたことは、東と西の間で自身の居場所を見つけ完し自信を抱いた彼自身が、われわれ皆に誇りを与えるものである、固い決意のほどを示していた。ノーベル賞をトルコの作家が受賞するということがどうして重要であるかということを、再度認識させるものであった。

■感情があふれた

もちろんパムクは、文学と関わる主観的なスピーチを行なった。しかしこのスピーチでは彼をそして受賞した賞の価値を貶めようと努めている人に関し、取り上げる必要のある些細な話しもないではなかった。

45分続いたスピーチが終わると、ホールにいる全ての聴衆はスタンディングオベーションで長い間拍手を続けた。オルハン・パムクは台から降りて、前列の方に座っていた娘のルヤーに近寄る際、周りは彼を祝福するスウェーデン・アカデミーのメンバー、近親、通訳、トルコの友人たちに包まれさえしていた。

興奮していたことは明らかであったオルハン・パムクではあるが、この熱い注目を今一度上品に受け止めることができた。その後、ホールから出るときには感情があふれ出していたらしいが、これはただ聞いた話で、見たわけではない・・・。




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( 翻訳者:近岡由紀 )
( 記事ID:4077 )