シャルル・リズク「新大統領か、それとも新しい国民協約か?」(アル・ナハール紙)
2006年02月21日付 Al-Nahar 紙
シャルル・リズク(法相)「新大統領か、それとも新しい国民協約か?」
2006年2月21日付アル=ナハール紙(レバノン)HP1面
政界の諸勢力は、共和国大統領職の問題についていささか拙速な取り上げ方をしている。あたかも現大統領の交代が、統治体制の正常化と我が国の政治および治安面での安定回復に十分であるかのように。
しかし事はそう簡単ではない。問題は大統領個人の域を超えたものである。そればかりか大統領制度そのものの域すら超えて、レバノンと中東が経験しつつある時代の要請に適合する政治的手法の創出が求められているのである。レバノンの特徴は、周囲の環境に最も影響を受けやすく、外に対して開かれた国の一つだということであり、そこから否定的な面と肯定的な面が生ずる。国外からの影響を制御するためにレバノン国内の一致団結が必要であることを認識しなければ、否定的な面が支配的になることになる。
忘れてはならないのは、我が国が現在政治的に混迷を極めている原因のうち最も重要なのは、国内の活発な勢力のいくつかが、このところ中東地域において発生している諸変化の重大性を認識していないかのように振舞っていることであり、その諸変化に正面から取り組み、レバノンが地域情勢の中で現在のように客体ではなく主体たり得ることを可能にするような政治的手法を創出する努力をしていないということである。
レバノンにはここ数十年のうちに乗り越えてきた決定的な節目がいくつかある。それらにおいて選り抜きの指導者たちは地域の状況を読み取り、情勢の展開に適応することに成功してきた。特に1943年フランス委任統治から祖国独立へと移行した時期と、バグダード条約機構の時代からアラブ体制へ移行した時期である。同体制は1956年の対エジプト三国[※英、仏、イスラエル]侵攻の後に中東地域を席巻し、2年後にはフアード・シハーブ少将のレバノン共和国大統領選出へと導いた。
1943年、レバノン国内情勢は地域全体の情勢と完全に混交する状況にあった。イギリスはその1年前にエル=アラメインの会戦において勝利を収めた後、中東地域への支配権を確立し、シリアとレバノンに対するフランス委任統治体制の残滓の一掃に着手した。当時ビシャーラ・アル=フーリー、リヤード・アル=スルフ、サリーム・タクラー、ミシェル・シーハー、カミール・シャムウーンなどに代表される政治勢力は、この変化の重要性を認識し、国民協約と呼ばれた新しい政治体制に基づく独立を確固たるものとした。その土台は今日に到るまで確固として根づいている。
同じことが1958年にも繰り返された。フアード・シハーブ少将の大統領選出は、一時的な国内政治問題を解決する能力のある人物の選択ということにとどまらない。それは、1955年にイギリスが、バグダード条約機構を押しつけ、トルコからイラク、ヨルダンに到る強大な枢軸を形成して中東における影響力の回復を画策したことに始まった生みの苦しみの成果であった。この親英枢軸に対抗したのがガマール・アブドゥンナーセルのエジプト率いるもう一方の枢軸であった。そして新たなアラブ体制形成の渦中において、独立国家の建設と、この独立が欠いていた外交・経済・社会面での実質を獲得することをスローガンに掲げたフアード・シハーブ少将が大統領に選出されたのである。
シハーブ主義体制は、その拠りどころであったアラブ地域体制が1967年6月5日に崩壊したことによって崩れ去った。イスラエルが度重なる敵対行為を行い、パレスチナ革命運動が勃興するなかで、中東地域は不安定な状況に見舞われた。そして1975年、レバノンの国民統合は崩壊し、レバノンは長期にわたる保護支配の下に置かれることになる。その幕が閉じられたのは2005年のことであった。
こうした事実を想起することから我々は、現在の国際社会体制ならびにアラブ地域体制の特色を提示することが出来る。それは次の二つである。先ず第一に、第二次世界大戦以来初めて、アフガニスタンからイラクに到る中東地域に欧米の軍隊が展開し、ソヴィエト連邦消滅以降の国際社会における覇権勢力の軍事的支配圏を形成しているということである。また第二に、この欧米勢力の影響力拡大にともなって、戦略的に極めて重要な石油の富を所有するイランという地域大国が勃興しているということである。イランはパレスチナ立法評議会選挙においてハマースが勝利したことで、従来からのシリアに加えて新たな後背地を獲得している。
(後略)
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( 翻訳者:田中裕子 )
( 記事ID:1996 )