預言者ムハンマド生誕祭のあり方に、神学者から「浪費」と苦言(Milliyet紙)
2006年04月11日付 Milliyet 紙

預言者ムハンマドの生誕日を祝う「生誕週間」で開かれる「ロケット花火やレーザー光線の飛び交う式典」に対し、神学者の大部分は苦言を呈している。神学者の見解は次の通り。

■スレイマン・アテシ教授(元宗務庁長官)
われわれの宗教ではムハンマドの生誕を祝うことはない。預言者は自らの生誕を祝っていたわけではない。(ムハンマドの生誕から)2、3世紀経っても祝われていなかった。生誕祭は5、6世紀後になって善良な人々によって始められた。その当時のお祝いとは礼拝であった。次第に行事が増えていった。現在に至っては、ロケット花火で祝われている。これは浪費であり、浪費はハラーム(宗教上の禁止事項)だ。私は今のような生誕祭を正しいとは考えていない。見せ物になっている。浪費を避ける必要がある。このような式典は宗教との関連性がない。何でも宗教に取り入れてしまうようでは宗教は成り立たなくなってしまう。こうした浪費を宗教に取り入れる権利は誰にもない。

■ハムディ・ドンドゥレン教授(ウルダー大学神学部)
浪費と見せ物だ。こうした儀式は、祭りのように愉快に、大規模に周りに大きな音を立てて知らせるようなものではなかった。われわれの伝統にはなく、後になってもたらされたものだ。預言者ムハンマドの時代には、レギャーイップの夜や預言者の生誕の夜、その周年記念日に、また教友の時代にもこのような式典はなかった。何世紀もたって生まれたものだ。これは少し大げさに感じられる。浪費にも思えるし、単なる見せ物のようでもある。儀式はこのような形で変化させないことが肝要だ。より荘厳に、静寂の中で行われるべきだ。

■サーリフ・トゥー教授(マルマラ大学神学部)
科学と技術は発達した。異なる習慣は正しくとらえられるべきだが、それにはバランスと節度が必要だ。ロケット花火は費用がかかる。私なら「お金を出して援助してくれ」と言われても出さない。やり過ぎは良くないことだ。トルコは豊かな国ではないのだから、何らかの方法で過度に費用がかさむことは批判の対象となりうる。イスラームは簡素さを基本としている。

■アブドゥッラー・アイドゥンル教授(サカリヤ大学神学部)
われわれの伝統にこうした形で生誕を祝う習慣はない。ただし、1つのお祭りとして考えるなら問題はない。浪費の程度の状況により変わりうるものだ。浪費にならない範囲内で、過度にならず、儀式の目的で行われる場合には、問題があるはずはない。これが宗教的な礼拝のように行われることには問題があるが、皆のお祭りとして考えることには異論はない。

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( 翻訳者:栗林 尚美 )
( 記事ID:2181 )