エルドアン首相、セゼル大統領に反論「反動主義の忠告は無用」(Hurriyet紙)
2006年04月16日付 Milliyet 紙
独立実業家協会(MÜSİAD)の常任委員会でエルドアン首相は、誰の発言と言及は避けたが、アフメト・ネジュデト・セゼル大統領が士官学校で行った演説を示唆して、何を根拠にトルコで世俗主義が危険にさらされていると発言したのか理解に苦しむと述べた。エルドアン首相は「敬虔な人々を政治から遠ざけるためにこのような発言をしているのであれば、国民は容赦しない。反動主義の危険性があるなどと言ってもらわなくて結構だ。」と述べ、次のように続けた。
■適切に判断する
我々はテロ問題に直面しており、これに対し対策を講じている。しかし我々は意味のない強硬主義には反対だ。なにごとにもよく理解し、消化したいと考えている。民主主義、自由には、このような態度が必要だ。強硬な手段が必要なときにはそうする。実際、必要なときには強硬手段が使われている。
■我々は世俗主義を認めている
残念なことだが、トルコで世俗主義が危機にさらされているとしばしば言われる。何を根拠にそう言われるのか、理解に苦しむ。 1,400万票を獲得し政権をとった我々は、反世俗主義者として登場したのではない。世俗主義を認めるといって政権をとったのだ。一部の人間がこれと異なるイメージをつくりだそうとしていることは間違った行為だ。
■ 敬虔な人々も政治を行う
わが国では頻繁に反動主義が話題にされる。これも悲しむべきことだ。実際にそんなことは起こっていないのに、あたかも起こっているように振舞う人々にとって、反動主義に警告を発することは英雄的行為なのだ。これをわが国で誰がよくやるか、よく知られていることだ。しかしかりに敬虔な人々を政治から遠ざける目的でこれを言っているのならば国民は容赦しない、そう思うべきだ。なぜならば、この国には敬虔な人にも政治を行う権利がある。 障害はないのだ。反動主義の忠告は我々には無用だ。我々は反動主義のことを学んだことがあり、良く知っているからだ。
■ 司法の政治化があるとすれば、それは公正発展党政権以前にもあった
司法の政治化という表現は決して受け入れることができない。裁判官・検察官高等委員会は7名で構成される。うち1名は政治家、もう1名は官僚だ。他の5名は大統領によって任命される。これのどこを政治化したというのか。もし政治化という現象があるというのなら、私はここにクエスチョンマークをつけたい。なぜならば、黙ることで疑いは晴れない。国民の記憶のなかに曇りや陰りを落とすことは間違いだ。司法界の上層にいる裁判官、検察官が問題というのなら、我々が政権をとって3年になるが、我々は裁判官を試験によって採用している。この試験による着任者は周知のとおりだ。彼らはここまでくるまでに最低10年を要している。もし政治化というものがあるのならば、それは我々の政権以前に着任した検察官、裁判官にある。この責任をどうして公正発展党政権に負わせようとするのか。
■ 共産主義国の残党
エルドアン首相は、社会保障改革は革命だと述べ、「共産主義国の残党はこれを認めたがらない。」と共和人民党を批判した。また「(共和人民党は)我々は社会民主主義だとも言うが、この党に社会民主主義など成り立つはずがない。」と述べた。
エルドアン首相は、道路開通式のため訪れたイズミトで、サッカーチームのフェネルバフチェのユニフォームを着せられた子供を抱いて可愛がった。(掲載写真はその様子)
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( 翻訳者:井上さやか )
( 記事ID:2219 )