行政裁判所襲撃事件、ススルルク事件と関連か?(Radikal紙)
2006年05月23日付 Radikal 紙

行政裁判所襲撃事件を扇動したとして取り調べを受けているムザッフェル・テキンが、ススルルク事件(*1)のイブラヒム・シャーヒン、ヴェリ・キュチュクと電話で連絡を取り合っていたことが判明した。シャーヒンが釈放されたとき、腕を組んでいたのはテキンだった・・・

「クズレルマ」から「サウナ」マフィア、愛国軍統一運動からトルコ人抵抗協会に至るまで多くの「民族主義」組織との関連が明らかになった行政裁判所事件の犯人の仕掛けた最後の“爆弾”はススルルク事件だった・・・
ジュムフリイェト新聞社と行政裁判所への襲撃事件で主犯のアルパスラン・アルスランを犯行に向かわせたという理由で逮捕されていた元大尉のムザッフェル・テキンが、ススルルク事件の取調べで名前の浮上したイブラヒム・シャーヒンとヴェリ・キュチュクと何度も電話で連絡を取っていたことがわかった。テキンがシャーヒンと腕を組んでいる姿の映った映像も見つかった。

ジュムフリイェト新聞社・行政裁判所襲撃事件関連の取り調べは日増しに「深まって」いる。殺人犯を指揮し犯行に向かわせた中心人物として捜索中だったムザッフェル・テキン元大尉は、イスタンブル・アジュバデム病院でけがをした状態で発見された。テキンと、ススルルク事件で有罪判決を受けた元特殊治安部隊隊長のイブラヒム・シャーヒン、ならびに退役准将ヴェリ・キュチュクとの関係が明らかになった。

■電話でのやり取り
軍隊から26年前に追放されたテキンの電話帳にはキュチュクとシャーヒンの電話番号が載っていた。通話記録の調査から、テキンがキュチュク、シャーヒン双方と何度も相互に電話連絡を取っていたことが確認された。盗聴事件ではないため通話内容についての情報はない。

■テキンとシャーヒン:腕を組んだ映像
チャンネルDでもテキンとシャーヒンとの関係を映し出した映像が流された。チャンネルDのメインニュースジャーナルで放映された2002年8月7日付の映像の中で、テキンは釈放されたイブラヒム・シャーヒンの左腕に腕をまわした姿で映っていた。テキンはシャーヒンの手助けをするため釈放の日に刑務所に行き、手続きを終えた後で2人は腕を組んで刑務所を後にした。

■シャーヒンとキュチュク
イブラヒム・シャーヒンは、現正道党党首であるメフメト・アアル氏が公安局長時代に特殊治安部隊隊長代理に抜てきされた。シャーヒンは、ススルルクでの交通事故で亡くなった脱走犯のアブドゥッラー・チャトルと親しい友人であったことが分かっていた。シャーヒンの名は、イスラエルから購入された紛失武器事件にも上がっていた。
ススルルク公判で、マフィアを作った罪で裁かれたシャーヒンは、元国家諜報機構職員のコルクト・エクレンとともに「罪を犯すためにマフィアを組織し、その組織を統制した」罪により6年の重罪禁固刑を宣告された。だが公判中に遭った交通事故により「記憶を失った」シャーヒンは、2002年8月7日に健康状態が刑務所での服役生活に不適格との理由で釈放された。

ヴェリ・キュチュクの名前は、ススルルク事件の取り調べで重要証言と文書とともに上がっていた。チャトルと何度も電話で連絡をしていたことが確認されたキュチュクは、公式にはその存在が認められていないJİEM(軍警察諜報テロ対策局)コードネーム「イェシル(緑)」ことマフムト・ユルドゥルムが使用した携帯電話番号がキュチュクのものとして登録されていたことが明らかとなった。自身に対する全ての告訴が参謀長官によって否定されたキュチュクは、2000年8月に退職させられた。

■「口封じされないように」
自殺を試みたため、警察が病院で身柄を拘束したテキン元大尉は、「この2つの事件にはかかわっていない。私は高潔なトルコの軍人だ。誰も私の頭に袋をかぶせて口封じすることはできない。そうされないように自殺したかった」と話した。
取り調べでは、アンカラのサウナ業マフィアに上納金を支払わせていたマフィアに対する“地球”捜査でも名前の上がった「アタ・オジャクラル(祖先の炉辺)」会長のアイファン・パルラックも捜索中である。パルラックと、“地球”捜査で逮捕されたタメル・トプサカル元警部との関係も明らかになった。

*1:ススルルク事件・・・ 1996年ススルルクで発生した交通事故、その際車に乗り合わせていたのが国会議員と治安部隊とマフィア幹部であり、マフィアとの癒着問題として明らかとなったスキャンダル

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( 翻訳者:栗林 尚美 )
( 記事ID:2500 )