今日の視点 グローバリゼーションの一様相としてのワールドカップ ハムシャフリー紙
2006年06月11日付 Hamshahri 紙
2006年6月11日付ハムシャフリー紙
【アリー・サバーギヤーン】二日前のミュンヘンでのドイツ対コスタリカ戦で幕を開けた、第18回目サッカー・ワールドカップは、一ヶ月間世界を魅了することになる。予想では、延べ320億人がテレビを通して、また約300万人が試合が行われる現地のスタジアムで、ドイツ・ワールドカップを観戦する。
ワールドカップの試合とは、表面上本選に駒を進めた数カ国の間で戦われるサッカーのゲームである。しかし実際には、ワールドカップは、今日急速に人類の社会的生活のさまざまな領域に侵入しつつある、グローバリゼーションという現象の最も顕著な現れとして捉えることができるのである。ワールドカップと、そこでの一国のナショナル・チームの勝敗は、国の内政といった点において、政党や、政治集団・党派間の関係に甚大な影響を及ぼし、ともすると国民的な希望や失望といったものをもたらすことすらあるのである。
国際政治という観点から言えば、ワールドカップはライバル、さらには敵に対して、国民的な自尊心と名誉を得る場だ。通常ワールドカップでのナショナル・チームの勝利が、そのチームが属する国自身の勝利を象徴すると理解されているなど、ワールドカップの試合のこのような側面の重要性は極めて高い。このような感情的なアイデンティティーのレベルにおいては、国民アイデンティティーのあり方は変化しやすいのである。
文化の側面で言えば、ワールドカップとは、国という枠組みを越えた単一の《超国民的》文化を背景として、自らの国民文化を顕示するための、広大な場を提供するものである。世界の五大陸から32の多様なチームがワールドカップに出場し、さまざまな国に属する選手が、それぞれのナショナル・チームでプレイする。ここにおいては確かに、人間的文化が示されていると言うことも可能だ。しかし視点を変えると、このことは、それ独自の「サッカー文化」なるものが、ワールドカップという窓を通して、自身を世界の最も遠い場所にまで押し付けているということでもある。すなわち「サッカー文化」は、かつて広い世界のほんの一隅においてファンがいたにすぎない、何らかの価値を、あたかも世界的な価値であるかのように装っているのである。
経済の側面からいうと、ワールドカップの試合は最も大きな市場の一つを経済活動の場に提供するものとなっている。そしてそれは、市場を熾烈な競争へといざなう。ワールドカップから巨万の富を獲得せんとする妄想は、メディア、宣伝、食料品の供給・提供、スポーツ用品の供給・流通、観光、運輸等に従事する者たちを、駆り立ててきた。彼らは、ワールドカップ開幕のかなり以前から、めぐってきたビジネス・チャンスを正確に把握して、潜在的利益を現実化すべく、奔走しているのである。
ワールドカップの試合は、表面上のスポーツでの競争に加え、その場に居合わせた国々の政治的、経済的、文化的な広範な競争をも、内在させている。とはいえ、サッカーという競技はそれ独自の素晴らしさ、魅力というものを有していることも事実だ。それは、何百万もの世界中の人々に対して、情熱の溢れる瞬間を提供してくれる。というのは、サッカー・ワールドカップは、その全ての特徴とともに、現在の人間の生活の一部となっているからだ。
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( 翻訳者:齋藤あかね )
( 記事ID:2689 )