宗務庁長官、テロを容認する宗教者に警告:「宗教に対する背信行為だ」(Radikal紙)
2006年07月26日付 Radikal 紙
宗務庁のバルダックオール長官は、テロを容認する宗教指導者は宗教に背いていると非難した。レバノンで悲劇が起こっていると述べ、「宗教施設が爆撃されている」と話した。
宗務庁のアリ・バルダックオール長官は、人々が安心して眠ることができないほど世界は不安と悲しみにあふれていると話した上で、「宗教施設が人間の無慈悲な欲望のために爆撃されている」と述べた。2007年の巡礼シーズンが始まったのを機に昨日記者会見を行ったバルダックオール長官は、日常の出来事に関することについても触れ、以下のようなコメントを発表した。
■起こっていることは悲劇
宗教施設や病院、道路、橋などが人間の無慈悲な欲望のせいで爆撃された。あとには罪のない人々だけでなくまさに我々の望みがつながれ、また費やされてしまった状況の中で我々は生きている。最近になって中東で、とりわけパレスチナとレバノンで起こっている悲劇は我々皆を深く悲しませている。我々は宗教指導者たちに平和の呼びかけを行った。しかし十分に伝わっていない。政治家や官僚といった決定力をもつ人々が、この呼びかけにもう少し耳を傾けなければならない。
■テロ容認は背信行為
宗教指導者たちはテロ、戦争、悲しみ、涙に反対するのが当然であるべきだ。自分の痛みのためではなく、相手の痛みを鎮めるために呼び掛けができるのであれば、真の宗教人といえる。自分の利益のためにフトヴァ(法的意見)を出しているのならば、もはや宗教指導者であることをやめて、国際政治の登場人物として飛び回るベきである。いかなる宗教であれ、その思想の根幹に争いや悲しみや涙、そして罪のない人の殺りくなどないのだ。宗教指導者が暴力やテロを支持したり、自身の属するグループの見方だからといってこれらの行為を容認しているならば、宗教を冒とくしていることになる。
■無知に基づく行為は宗教的な罪
人の手によって生み出される悲劇がなんと多いことか!これらは人が教養を身に着けていないことから起きる事件だ。「田舎者の空砲」とは、空に向かって拳銃の弾を打つことを技能だと思っている人々の無責任なふるまいを指すが、これは一種の殺人行為だ。
■コーラン教室は公立学校の代わりではない
寄宿制のコーラン教室では、ただコーランだけ教えているのではなく、よい人間、よい国民となることを教えている。コーラン教室は公立学校の代わりではなく、それを補完するものである。コーラン教室を国の公の教育システムに代わるもののように示すことは誤りである。
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( 翻訳者:湯澤 芙美 )
( 記事ID:3097 )