「私の作家活動はやむを得ないものだった」—作家メフメド・ウズンの言葉
2007年02月19日付 Radikal 紙

全員総立ちで拍手している。拍手が少し治まり、再び大きな拍手が起こる。この拍手は、流浪の身として今まで生き、「やむを得ず執筆していた」と語る作家メフメド・ウズンの奮闘に対するものである。この記事で彼を話題とする。

一昨日(17日)メフメド・ウズンの作家生活が、イスタンブル・ビルギ大学で行われた会議で長々と語られた。本人は始めから終わりまで会場で耳を傾けていた。閉会の辞のために呼ばれた際とその挨拶を終えた後、ウズンは観客席から大きな拍手を浴びた。その後、師匠と呼ぶ作家ヤシャル・ケマルに抱きついた。

長い間、国家の「邪魔者」作家の1人とされてきたメフメド・ウズンは挨拶の始めに、この種の会議で話すことには慣れていないと述べた。

「というのは、私が慣れている場所は裁判所です。自分の作家活動について話すのは、それを擁護しなければならなくなった場所、つまり警察署、裁判所、検察官と裁判官のいる部屋でした。」

ウズンは、初めて本当の意味で自身が望んだように自分の作家活動が語られたと述べ、彼の作家活動がやむを得ないものだったことを明らかにした。

「私の作家活動は、やむを得ないものです。やむにやまれぬ抵抗です。これ以上見下されないように、侮辱されないようにと。2000年から2003年の間に5回も裁判にかけられました。裁判所で主張してきたことは、作家の自由、執筆の権利でした。これは、神聖なものです。これをずっと擁護してきたのです。」

■ 病気と闘わなければならなかった

メフメド・ウズンは、ディヤルバクルで休養しながら乗り越えた闘病生活についても話した。何か小説を書こうと思ったが、準備を終えていざ書き始めるという段になって病気が発覚したとし、その際ふたつの選択肢があったと述べた。

「医者の言うことに従う(筆をおく)か、病気と闘うか、どちらかひとつでした。家族や、親友や、民衆や、言葉や、小説のために、病気と闘わなければなりませんでした。死はとても近づいてきましたが、死を恐れはしませんでした。しかし、死と同時に、不死についても考えました。」

人間は、創作家としての努め、励み、作品によってのみ不死になれるとし、次のように語った。「不死になりたかったのです。これは、ある種の願望です。作家が不死になるかどうかというのは、作家自身が決めるものではなく、その人が生み出した文章が決めるものです。文章が作家の死後も生きていれば、そのとき作家は不死になれるのです。」

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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:10217 )