ムラト・ベルゲ、60年の人生を振り返る
2007年03月06日付 Milliyet 紙

新聞記者のトゥバ・チャンダルが行ったムラト・ベルゲ氏との一連の対談が、今週ドアン・キタップ社から『ある人生』という名の本として出版される。本の中でベルゲ氏は、(1980年)9月12日の軍事クーデターをどのように考察したか、エディップ・ジャンセヴェルがトルコ人民解放党・戦線(THKP-C)に対して行った資金援助について、そして自分がエミン・チョラシャンと同一視されることを嫌悪していることなどを説明している。

■ファティン・リュシュテュも批判していたが口には出さなかった

非常に緊迫した日々の中のある日、おそらく4月28日事件の後だったでしょうか、父(ブルハン・ベルゲ)と父の友人らはある特定の人物について極端に否定的な形で話していました。「獣」のような酷い言葉で・・・おそらくファティン・リュシュテュの事について話していたのだろうと思います。というのも当時ファティン・リュシュテュは「こんな風にいくわけがない。」と言って彼らを批判し始めていましたから・・・
つまり陰で厳しく批判していたのです。しかし面白いことに、ファティン・リュシュテュはヤッス島裁判の間このような態度を取っていたことについては一切言及しませんでした。そして彼もまた他の人と同様に最後には絞首刑になりました・・・これに対してエセム・メンデレスやシェミ・エルギンらは記録文書を提示して「私達は対立し合っていました。」などと述べて減刑してもらったのです。

■政府内秘密部隊のチェビク ビルだったのだろう

私を拷問した者達を今からではもう見分けることは出来ませんが、当時はそれが出来ました。たくさんの人物が出入りしていました・・・秘密部隊のトップはメムドゥフ・ウンリュチュルク大将でした。一度、彼も私の部屋にやって来ました。制服姿の大佐や民間人、少佐を連れて・・・
その彼は私に向かって機械的な声で「調子はどうですか?」などと尋ねました。それ以前に彼一人でやって来たことがありました。善人としてふるまっていたその人物は、おそらくチェビク ビルだったのでしょう。後に見た写真と比較してそう思いました。秘密部隊で負傷した、と言ううわさを聞いたので「もしや(彼ではないか)。」と思っています。でなければ「絶対に彼です。」などとは言えません。ウンリュチュルク大将は「見て下さい、私は君のために制服を着て来たのですよ。」などと言っていました。何を意味していたのか未だにわかりません。
その後にも「我々はあなたのお父さんの記事を読み、教訓を得たものです。気に入っていましたよ。」などと言っていました。私は彼らが言ったことがうそであったとは思いません。

■エディップ・ ジャンセベルからTHKP-Cへ援助

・・・エディップ(ジャンセベル)は健全な人物でした。私が政治に影響を受けすぎていたと考え、これに反発していました。しかし健全な人物でした。3月12日事件(※1)が起こり、私もTHKP-C(トルコ人民解放党・戦線)の為に活動を始めました。全ての事がそうであるように、この活動にも資金が必要でした。私もエディップの所へ行き、「名義は必要ありません。私は今、政治的反抗勢力を組織する活動をしています。資金も必要です。私に毎月まとまった額の資金を頂けないでしょうか?」と言いました。(エディップは)それを承知し、資金を出してくれました。私達の法律ではこのような資金援助でさえ、私が投獄されて白状した場合には、今度は彼をも組織の一員であったとして投獄するのに十分だったのです。更にミナ(ウルガン)から月に50リラを貰っていました。ラシフ・ギュランからも、ムラト・サルジャからも援助を受けていました・・・

■「ミッドナイト・エクスプレス」のハミドゥは実在した

・・・シェラフェッティンと私はそれぞれ手錠をかけられ、サーマルジュラル刑務所へ送られました。・・・そこでは恐ろしい看守が周りを歩いているのです。年齢は上で、ハミドゥという看守長です。私にも一度怒鳴りつけました・・・当時「ミッドナイト・エクスプレス」で話題になった若者も大麻が原因で捕まっていたようです。(彼も)サーマルジュラルに収監されていました。そこでは麻薬もあったはずで(彼は)夢の中を歩いているようでした。「ミッドナイト・エクスプレス」に登場するサディストのハミドゥとはこの看守でした。つまり映画の中の看守は現実に存在する人物だったのです・・・映画の看守のタイプは、本物とは全く似ていませんでしたが、インスピレーションの源はこの人物です。恩赦が出されてから2,3日後に釈放された者のうちの一人がこのハミドゥを殺しました。何の報いも受けなかったことでしょう!「この映画は事実に反する」と叫ぶのは簡単なことですが・・・

■前日にクーデターのことを知った

(1980年)9月12日の前日、朝のまだ暗いうちに誰かが訪ねて来ました。見てみると、私達の集団にいる若いメンバーの一人でした。彼は「クーデターが起こるぞ、着替えて出よう」と言いました・・・若い将校の一人が指令書を持ってきたそうです。カドゥキョイ地区に対しての指令でした。「国内の状況は悪化している、軍が介入するだろう」と言い、さらに「土曜日もしくは日曜日、つまり12日の朝もしくは13日の朝に軍事介入を開始する予定だ。しかし現在のところまだわかっていない。何をどこからどこへ介入させるのかはわからない・・・日曜日の朝に作戦が開始される予定だが、新たな指令が出されれば土曜日の朝に変更される可能性もある」と言っていました・・・

■アダーレット・ジムジョズ、フェルディ・タイフルとコカイン

わが国の労働者達は大麻を好んでいます。当時はまだそれは極上の楽しみではありませんでした。マリファナやLSD(覚せい剤の一種)などはまだ普及しておらず、一番の楽しみはコカインでした。コカインは白ロシア人達がイスタンブルに持ち込みました。ノヴォトニーなどの娯楽街の暗く奥まった街角でコカインが出回っていました。アダーレット・ジムジョズや兄弟のフェルディ・タイフルなどがコカインを使用していたようです・・・労働者達は大麻を、食後にお皿を下げてラクを飲もう、と、まるでコーヒーでも飲むかのように大麻を使っていたようです。更に国民は大麻を、まるでタバコのように人に勧めるのも好んでいました。そういったわけで私達にも(大麻を吸う)機会がありました。実際に私達も1,2回極度の麻痺状態になったこともありました・・・しかし私は大麻が好きではありませんでした・・・

■宗教が必要ならキリスト教を選ぶ

私が調べてきた様々な宗教の中から、もし私がどれかを信仰するとしたら、おそらくキリスト教もしくは極東の宗教のうちの一つを選んでいたでしょう。ともかく最後に選ぶのがイスラム教です。ユダヤ教も希望しません。話は素晴らしいのですが、恐ろしくもあります。

■お元気ですか、エミンさん

私にはあご髭がありますが、例えば通りで男が私の傍に近寄ってきて、「お元気ですか、エミンさん」と声を掛けて来ます。そして私がエミン氏(チョラシャン)だと言って賞賛の言葉を浴びせ掛けてくるのです!これが私にとってどれほどの侮辱か、(彼は)考えもつかないでしょう。こういったことがいつも起きるのです・・・この様な状況下では否応なく、何をしても無意味なのだという想いにとりつかれてしまいます・・・

■知識人達の陳情書の為にデミレルのところへ行きました

9月12日(クーデター)に言及された憲法において具体化される法律に私達が満足していないこと、それは間違っていること、社会の発展を妨害していることを私達は主張していました。
大部分は憲法に関する原文(についての主張)です・・・もちろん法律の適用に関する事柄も中にはありますが・・・そして署名集めを始めました・・・署名を貰う為にデミレル元首相のところへ行きました・・・その頃私達はデミレル元首相と面識があったので、面会したいと言えば、決して断られることはなかったのです。このことについて話し合う為に行きました・・・そしてデミレル元首相は拒否したのです。「まずはやってみましょう!すでにあなた達はある地点まで到達したのです。もうこれより先には進めません。」私には何を言っていたのかわかりません。
私が最初から主張していた通りになったのです。つまり、始めからこういう人達と話し合っておかなければ、(彼らの)都合のいいように「あなたたちは実際よくやりました、さあ続けてください」と言ってくる、ということです。そして実際にそうなりました。もしそうでなかったとしたら、彼らは何かしていたでしょうか。もちろんこの件については保証出来ません。それでも放っておくことは出来たはずです。放っておくというのはトルコでは一度もなかったことですから誰にもわかりませんが・・・

■9月6-7日事件の容疑者から知事へ・・・

ヤッス島裁判の間、この9月6-7日事件(※2)も訴訟事項になりました。裁判にかけられた人物の一人は、テッサロニキにあるアタテュルクの家に爆弾を投げ入れた罪に問われた男でした。男は「私は内務省によって教育をうけた奨学生でした。そしてギリシャでも仕事をしていたことがあります。」と言っていました。被告人であったとき証人になりましたが、二度とヤッス島では見かけることはありませんでした。後になって知ったところによると、その後数年間警察で、どの職かはわかりませんが主任を務め、その後知事になったようです。

■『ある人生』は今週本屋に並ぶ

2000年代で最も人気の高い本のうちの一つである「対談シリーズ」に新作が加えられた。新聞記者のトゥバ・チャンダルがムラト・ベルゲ氏と共に3年に渡って対談を行い、その対談に沿って『ある人生』という本が執筆された。今週本屋のショーウィンドウに並ぶ。ドアン・キタップ社から出版されるこの本の中では、ベルゲ氏の出生から子供時代、イスタンブルに移ってから学生時代、(1960年)5月27日(クーデター)からヤッス島裁判、マルクス主義からヒルトン・ホテルのプール、違法バー経営をしていた日々まで60年に渡る生涯が一切包み隠しなく描かれている。
ベルゲ氏の人生に関する一部の章が、大きな議論を醸し出しそうである。

※1・・・1971年3月12日に起こった、トルコ軍部によるクーデター
※2・・・1955年9月6-7日に起こった少数民族(トルコ国内のギリシャ系住民及びアルメニア人)に対する襲撃事件。テッサロニキにあるアタテュルクの生家に爆弾が投げられた、という虚偽の報道がきっかけで起こった。

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( 翻訳者:新井仁美 )
( 記事ID:10331 )