大統領候補ギュル外相の経歴  誕生日は共和国記念日
2007年04月25日付 Radikal 紙

カイセリのハスベキッチ地区でアドヴィエ夫人は1950年10月29日に初めての子どもを授かった。アドヴィエ夫人とアフメト・ハムディ・ギュル氏のあいだの3人兄弟の長男に、祖父のハイルラッフ・ギュル氏は、父の名前を与えた。それが、アブドゥッラーである。

しかし、共和国記念日に出産したため家族は数年にわたり息子をアブドゥッラー・ジュムフル(共和国の意味)と呼んでいた。2歳の頃撮った縞のセーターを着たアブドゥッラーの写真の裏に、アフメト・ハムディ・ギュルの手で書かれた註にこうある。「1952年10月29日、2歳の誕生日に、アブドゥッラー・ジュムフル・ギュル」。それから56年後、アブドゥッラー・ギュルはトルコの第11代大統領候補となり、名前の「ジュムフル(共和国)」が現実のものになろうとしている。

■68年の右派戦線から
アドヴィエ夫人とギュルルクのイマームで旋盤工のアフメト・ハムディ・ギュルの息子アブドゥッラーは、カイセリ・ガーズィパシャ小学校とカイセリ高校を修了した後、1968年にイスタンブル大学経済学部に入学した。

国民トルコ学生連合のメンバーは、左派のグループによって写真を壁に貼られたり、大学への入構を何か月も妨害された右派の学生グループだった。1969年にエルバカンを中心に出現した政治潮流に影響を受ける。奨学生として2年ロンドンとエクスター大学で言語を学ぶ一方で、ムスリム学生連合に入会。博士論文は「トルコとイスラム諸国間における経済関係の発展」というテーマで書いた。トルコに帰国すると、サカリヤ大学産業工学部で経済学の授業を行った。
1980年9月12日の数日前にイスタンブルで結婚したギュルは、結婚した最初の週にメトリス軍事刑務所に送還される政治犯の一人となった。

1983年から8年サウジアラビアのジェッダに本部があるイスラム開発銀行で経済学専門員として勤務。1991年に国際経済学の助教授になる。ギュルは英語とアラビア語ができる。

■割礼式と政治
息子の割礼式のためにジェッダからトルコに戻り、初めて政治に足を踏み入れることとなる。1991年の41歳のときと、1995年に2回福祉党のカイセリ選出国会議員になる。エルバカンが首相であった福祉党・正道党連立政権で、国務大臣、政府広報官、「影の外務大臣」を務め、福祉党が活動停止になってから創設された美徳党では副党首になった。1999年に3回目の国会議員に選出された。

■エルバカンに反旗を翻す
エルバカンが政治活動を禁止されたことで、レジャイ・クタンが党首候補に任命された2000年5月14日に、同じくギュルも美徳党第一回通常大会で党首候補に立候補した。レジェプ・タイイプ・エルドアンとアルンチとともに活動したギュルは、エルバカンが支持を表明したクタンと接戦を繰り広げたが、敗れた。

そして、福祉党のあと美徳党も活動を停止された。「改革者の運動」の3人のリーダーの1人ギュルは、間もなく政権を奪取する公正発展党の創設メンバーとなる。2002年11月3日の選挙の後、4度目のしかし、今回は公正発展党所属の国会議員となった。

■三ヶ月間の首相
エルドアンは、公正発展党の党首であるにもかかわらず、投獄されていたため、被選挙権を剥奪されていた(*註)。しかし、このことがギュルに首相への道を開くこととなる。2002年11月18日付けで首相として第58代内閣を組閣した。

■法案通過せず
ギュルの短期間の首相就任期間は、トルコにとっての危機的時期と重なる。アメリカがイラクへの介入を準備している時期に首相となったギュルは政権の長として、アメリカ兵がトルコ領内を軍事利用できるようにする法案をトルコ大国民議会に提出した。しかし、法案は通過しなかった。

この間、共和人民党の支持により憲法の国会議員選出条件が変更されると、スィイルト地区選出のファドゥル・アクギュンドゥズは詐欺事件の立件を口実に選挙が無効とされ、選出が取り消された。エルドアンは3月9日に行われた補欠選挙で国会入りを果たした。ギュルは、3月11日に第58代内閣を辞職。2003年3月14日にエルドアン内閣のもと外務大臣、副首相になった。

■批判の矢面に
ギュルは、首相と外務大臣時代にサインした数多くの法執行により、野党の批判の矢面に立たされた。2003年7月4日にスレイマニエで任務をしていたトルコ兵に対しアメリカ軍が行った「袋被せ事件」は、トルコで反米のあらしが吹き荒れるもととなった。野党はギュルがアメリカに抗議文書を送らないとの理由で、痛烈に批判した。ジュネイド・ザプス、アフメト・ダヴドールらが外交政策に影響を及ぼしているとして批判された。

ギュルはエルドアンよりスカーフ議論における態度が明確である。実際的な問題の解決ということになると、エルドアンによれば「より妥協的」だ。夫人が欧州人権裁判所で起こしたスカーフ訴訟を取り下げたことは、こうした態度の明確なしるしとして見られている。

■EU:どこからどこにむかう?
ギュルは、福祉党議員だったころEU加盟に対し、「タカ派」的姿勢をとっていた。1995年3月8日、トルコ大国民議会の演台からEUとの関税同盟合意に調印した当時の政権を激しく批判したギュルは、「これは完全にイデオロギー的な、完全に政治的事件だ。トルコがEUに入れないのははっきりしている。ヨーロッパ人はそう言っている。ヨーロッパの主要な政治家はそう言っている。なぜなら、EUはキリスト教連合だからだ」と発言した。

こうした発言をしたギュルの外務大臣就任時期に、トルコ・EU関係で非常に重要な展開が生じた。2005年10月3日に加盟交渉の開始が決定された。政府がアナンプランのために動くことと、北キプロス共和国のデンクタシュ大統領との間で意見の食い違いが生じたことも批判材料となった。イスラム保守派時代に「EUはキリスト教クラブだ」と発言したギュルは、あらゆる批判に対抗しEU加盟プロセスを進めた。

■アブドゥッラー・ギュル Abdullah Gül
アブドゥッラー・「ジュムフル」・ギュルは、アドヴィエとアフメト・ハムディ・ギュル夫婦の3男の長男としてカイセリで生まれた。ガジィパシャ小学校、カイセリ高校を修了。2年ロンドンで奨学生として滞在。41歳のときに国会入りしたギュルは、今回の大統領選に勝利すれば57歳で大統領官邸に登ることになる。大統領選出時、アタテュルクは42歳、イノニュは54歳、セゼルは59歳であった。

*訳者註:イスタンブル市長として活動中の1997年に政治集会でイスラム教を賛美する詩を朗読したことがイスラム原理主義を煽動したしたとして告発され、1999年3月26日、刑法第312条2項(国民間の宗教および人種差別扇動)の罪により4年半の実刑判決を受けた。

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( 翻訳者:塚田真裕 )
( 記事ID:10721 )