エルドアン首相、第60代内閣を組閣 -新大臣8人のプロフィール
2007年08月30日付 Radikal 紙

第60代内閣の8人の新大臣

■宗務庁から政界へ
ムスタファ・サイド・ヤズジュオール:トルコ共和国の第14代宗務庁長官であるムスタファ・サイド・ヤズジュオール教授は、1949年2月22日にトラブゾンのシュルメネ郡で生まれた。アンカラ大学神学部を卒業。約1年間宗務庁本庁で働いた後、1972年に国民教育省の名のもと博士課程教育のためフランスに派遣された。博士号を取得して帰国。アンカラ大学神学部に就職し、1983年に准教授、1988年には教授となった。1987年6月17日から1992年1月3日までは宗務庁長官を務めた。1994年7月21日からはアンカラ大学神学部長となった。既婚、2児の父であり、AKP(公正発展党)の国会議員を2期務めている。

■マーク・グロスマンの元仕事仲間
メフメト・シムシェキ:バトゥマンのゲルジュス郡アルジャ村で1967年に生まれた。農家を営む家庭の第9子であり、ガス灯の明かりで勉強し、学校へ行く時は12キロの道のりを歩いていた。アンカラ大学政治学部経済学科を優秀な成績で卒業。イギリスで大学院教育を受けた。エティ銀行の奨学金で学んでいたシムシェキは、新聞の求人広告がきっかけで1993年から1997年までマーク・グロスマンが大使であった頃にアメリカ大使館で働いていた。その後はベテラン経済学者として仕事をしていた。1997年にアメリカ居住権を得てニューヨークへ渡り、多くの投資銀行で働き、再びトルコに戻った。2000年にメリル・リンチ銀行に入った。シュレイヤ・セルゲンゲチティの後任として中央銀行の副総裁への就任が望まれた。しかし、この要求は第10代大統領アフメト・ネジュデト・セゼルによって拒否された。

■ブルサ高等イスラム研究所を卒業
ファルク・チェリキ:1956年アルトゥビンのユスフェリ市生まれのチェリキは、ブルサの高等イスラム研究所とコジャエリ大学経営学部卒である。同大学で修士課程を学び、4年間国民教育省に勤めた。1999年4月18日の選挙で美徳党のブルサ選挙区の国会議員に選ばれた。福祉党の県支部長や美徳党の副党首も務めたチェリキは、公正発展党の設立に関わり、ブルサ選挙区の国会議員となった。同党のトルコ大国民議会議員会長に就任。既婚者で4児の父である彼は、今期は議員会長の職には就かなかった。チェリキは第60代内閣で労働社会保障大臣を務める。

■経済は経済学の専門家に一任
ナーズム・エクレン:1956年イスタンブル生まれ。ブルサ経済貿易学院を修了し、博士課程はウルダー大学で国際銀行論について学んだ。マルマラ大学で経済理論学の准教授となったエクレンは、マンチェスター・ビジネス・スクールにおいても「発展途上国における銀行の国際活動」プロジェクトの運営に携わった。その後、マルマラ大学の実用経済学の教授となった。公認金融コンサルタントの仕事も持っており、トルコ・ワクフラル銀行頭取の職に続き、実用経済学や銀行業の分野の教育・運営コンサルタントとしても活躍している。

■内閣・政党の両方におけるエルドアンの右腕
ハヤティ・ヤズジュ:1952年、リゼで生まれる。1975年にイスタンブル大学法学部を卒業し、1976年に判事候補生として法務省に勤め始めた。多くの地域で判事として仕事をこなし、1985年からはイスタンブル弁護士会所属の弁護士として働いている。公正発展党内では、組織化担当の総裁補佐を務めた。結婚しており、2児の父である。

■エルドアン時代のイスタンブル上下水道管理局長
ヴェイセル・エルオール:1948年アフヨンで生まれ、イスタンブル工科大学建築学部を卒業。エネルギーや水に関する分野の専門家として知られているエルオールは、エルドアンがイスタンブル広域都市長であった時期にİSKİ(イスタンブル上下水道管理局)局長を務めていた。公正発展党政権が発足すると、国家水利総局局長となった。7月22日の選挙ではアフヨン選挙区から国会に入った。

■工業のトップには工業家の大臣が
ザフェル・チャーラヤン:1957年ムシュ生まれ。1980年に現在のガーズィー大学の工学部機械工学科を卒業。アルミニウム業界で実業家となり、1982年にはその会社がASO(アンカラ商工会議所)のメンバーとなった。1987年からは取引委員会をはじめとするASOの運営本部で働き、1995年にはASOの会頭に選ばれ、3期にわたって務めた後公正発展党の国会議員となった。また、トルコ会議所・商品取引所連合でもリファト・ヒサルジュクルオールの時代に副会長を務めた。
穏やかな人柄と明快な対話で注目を浴びているチャーラヤンだが、2000年11月と2001年2月の経済危機の後トルコへ帰国し経済担当国務大臣を引き受けたケマル・デルビシュにも注目された。デルビシュは、CHP(共和人民党)から政界に入る際にチャーラヤンも共和人民党の議員候補にと誘ったが、チャーラヤンは断った。彼はまた、「地域の最低賃金」という提案を政府に提出したが、この提案は国務大臣アブデュッラティフ・シェネルを始めとして承認されなかった。
チャーラヤンは英語が堪能で、既婚、2児の父である。

■35年来の共和人民党員であるギュナイ、初めて公正発展党内閣の大臣に
エルトゥールル・ギュナイ:1948年オルドゥに生まれる。1969年イスタンブル大学法学部修了。学生時代から社会的な事件に強い関心を持っていた。
1970年代にオルドゥで弁護士業を開始。共和人民党本部創立50年記念で開催されたコンテストにおいて、「政府の政党から人民の政党へ」と題した論文で1等を受賞した。共和人民党のオルドゥ県支部長ならびにオルドゥ選挙区の国会議員を務めた。1980年代以降はSHP(社会民主主義人民党)でアンカラ県支部長や書記長補佐などを務めた。共和人民党の政治生命が復活すると共和人民党に所属。1992年9月9日から1994年の末まで書記長を務めた。
1999年の総選挙で共和人民党が議席を失ったため、再び活発な政治活動を開始した。党首候補ともなったが、その後政党運営に対する見解の不一致が原因で共和人民党から除名された。ギュナイには「ボスニア論文集」「政治に対して」と題して出版された2冊の著作や、多くの新聞・雑誌において法学及び政治について語った膨大な記事やエッセイがある。2児の父である。

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参考記事:第60代内閣

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( 翻訳者:川原田喜子 )
( 記事ID:11785 )