ギュル大統領誕生の立役者は民族主義者行動党
2007年08月29日付 Milliyet 紙

アブドゥッラー・ギュル氏を大統領へ導いた道は、民族主義者行動党の大統領選挙投票への参加決定によって開かれた。第10代目大統領アフメト・ネジュデト・セゼルの通常任期が5月16日をもって満期になるということで大統領候補者の出願期間は4月16日に始まった。4月24日に公正発展党の候補者として名前のあがったギュル氏は、唯一の候補者であり、361人の議員が参加した初投票で357票を獲得した。
憲法裁判所は、共和民主党の元最高裁判所長サビフ・カナドオール氏に従って行った提訴をうけ、「会議の定足数367のところで行われる決定は、定足数以下では行われない」という理由で第一回の投票を行われなかったものとみなし無効とした。この決定をうけ、初投票は5月6日に再び行われた。この本会議でも2回人数確認が行われたにもかかわらず、367の得票数が得られずギュル氏は候補から離れた。
7月22日に選挙を行うという決定がなされ、大統領選出国民投票制に向けた憲法改正が行われた。7月22日の選挙後に再び決まった手順を踏んでいく11代目大統領の選挙プロセスは全体で4ヶ月を超えることとなった。

民族主義者行動党の歴史的決定
このプロセスの中でギュル氏に最も決定的なサポートとなったのが民族主義者行動党党首デヴレト・バフチェリである。バフチェリ氏が選挙の3日後に行い、ミッリイェト誌とも意見を共にした「国会本会議に出席する」という公正発展党の、340議席を獲得したが367という定足数には達していないという問題解決を可能にした。
共和民主党党首デニズ・バイカル氏は、民族主義者行動党のこの態度を「選挙戦でバフチェリが投げた縄は、アブドゥッラー・オジャランを死刑にするためのものではなく、ギュルを井戸から引き上げるためのものだった」と批判した。民族主義者行動党はというと、カイセリ議員のサバーハッティン・チャクマクオール氏を大統領候補として挙げ、本会議への出席を正当化した。
一方、トルコ大国民議会に共和民主党と統一会派で参加した民主左派党も、「公正発展党の大統領への固執に対してどのような大統領が必要であるかを示す」という理由でエスキシェヒル議員タヴフン・イチリを候補に挙げ、全ての投票で自らの候補者を支援するために参加した。民族主義者行動党と民主左派党は共和民主党の本会議ボイコットの呼びかけに対し肯定的な返答はしなかった。

支持も否定もない
改めてギュル氏が候補となった日に、ギュル氏に対して肯定的な反応を示した民主市民党は「積極的な支持もしないが、否定もしない」という態度をとった。投票には参加したが、ギュル氏には票を投じなかった民主市民党の対応については、党派代表のアフメト・チュルク氏が興味深い説明をしている。すなわち、「クルド主義―イスラム主義の共同戦線だ、という批判をしたい連中に攻撃材料を与えないためにギュルには投票しなかった」と。この結果、投票に参加しないという方法で、7月27日以前に大統領選出を阻んだ共和民主党を除いて本会議をボイコットした党派は今回は出なかった。

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( 翻訳者:藤井 庸平 )
( 記事ID:11828 )