1982年9月8日付の文書に「アルメニア人を特定し、監視せよ」
2007年10月04日付 Radikal 紙
ラディカル紙はクーデター直後の1982年9月12日に設立された軍事政権の、ある文書を入手。「アルメニア人を見つけ監視せよ・・・」
■記録文書には1982年9月8日の日付が記されている
「郡内及び郡に属する村において、アルメニア人及びアルメニア国籍保持者が存在しないことは、私の行った内外の秘密調査により明らかであり、上記の報告が今後の調査の基盤となるよう、私がここに署名を記す。」
この行の「アルメニア人」という表現を「ユダヤ人」に代えたなら、ヒットラー率いるドイツがホロコースト以前に行った諜報活動ととられうるだろう。しかしこれはドイツではなく、25年前のトルコで、国籍を持ち国に属し、税金を納め、兵役につくアルメニア人に対し行われたことなのである。
1982年・・・当時の参謀長官ケナン・エヴレンの統制のもと実現したクーデターから、2年が経っていた。国会、内閣は解散し、国全体に戒厳令が敷かれた。刑務所には囚人があふれた。非公式のデータによると、65万人が監視下に置かれ、168万3000人がファイルに記録された。
そしてちょうどこの時期に、戒厳令政権を通し警察組織に送られたある命令が、人々を恐怖に陥れた。内容は「アルメニア出身の国民を特定し、監視せよ」というものだった。ラディカル紙が入手した1982年9月8日付の文書によると、県の統治本部を通し警察組織へ、「管轄する地域においてアルメニア人、またはアルメニア出身者の存在の有無の確認、また存在が確認された場合、監視下に置いた上必要な調査を行うこと」との命令が下された。
■ 元警官は語る
元警官は自分らに送られてきた令状をラディカル紙にこう説明している。「戒厳令統治本部から命令文書が送られて来た。我々は管轄の地域内で調査を行った。地元の有力者と話した。アルメニア出身の市民がいるかどうかを尋ねた。誰が何語を理解しようとその言語で話す必要がある。これが秘訣だ。当時は戒厳令体制下だから、誰もが恐れている。アルメニア人は国土分割主義者とみなされていたため、もしいた場合、誰も(彼らを)かくまう勇気を出すことなどできなかった。私の管轄にアルメニア人はいなかった。もしいたなら、確認後名前と住所を統治本部に知らせなければならなかっただろう。そしてもちろん、命令に従うことも。
アンカラ'78年協会会長ルシェン・スュンビュロールは、アルメニア出身の国民がアルメニア人であるということだけの理由でファイル記録となった事実を、「ファシスト時代の最も顕著な特徴」とみなしている。スュンビュロールはまた、「クーデターを行った者たちの理屈によれば、自分達と『違う』者は潜在的な敵なのである。そのため、ファイル記録や監視が必要となる。何年も政府の手にあったこの種の記録は消滅させるべきであり、そしてこれが社会の平和と平穏のために、致命的ともいえる重要性をもっていると我々は主張している」と語った。
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( 翻訳者:上田悠里 )
( 記事ID:12074 )