クルド人作家メフメト・ウズン、死去 -遺言は暴力行為の停止
2007年10月12日付 Radikal 紙

友人、医師らは語る。「メフメドは、回復したらすぐに暴力の停止を求めるつもりだった」 ウズンは本紙に対しても「クルド人は暴力から離れ、民主主義とEU加盟交渉に力を注ぐべきだ」と話していた。

近代クルド小説の創始者メフメド・ウズンがディヤルバクルで亡くなった。スウェーデン、次いでアメリカで胃がんの治療を受けていたウズンは、2006年7月13 日、「ディヤルバクルが私を治してくれる」とディヤルバクルに来たのだった。享年54歳。明日(13日)、ディヤルバクルで埋葬される。

政治的な理由からトルコを離れ、長い間スウェーデンで生活していた作家メフメド・ウズンは、進行する病が遅れて発見されると、しばらくスウェーデンで治療を受けたが、 病院から「手の施しようがない」と告げられ家に帰された。友人や読者のはからいでアメリカに渡るが、そこでも医者は介入しなかった。

■病院の前でデングベイのディヴァン
ウズンがディヤルバクルにくると、12人編成の若手医師チームが治療にあたった。ディヤルバクルの人々がウズンのために病院のまわりに愛の輪をつくった。そんなウズンのためにディヤルバクル広域市役所は、ウズンが治療を受けていたヴェニ・ヴィディ病院の正面にあるダーカプ広場にテントを建て、そこに「デングベイ(クルドの吟遊詩人)のディヴァン(長椅子)」を設置した。

ウズンは実際、93日後に落ち着きを取り戻し、退院した。退院時の記者会見では「ディヤルバクルの人々が私を回復に導いてくれた」と話し、ディヤルバクルの小説を書く約束もした。だが、その約束はかなわなかった。

時々病院に通いながら治療を続けていたウズンの心臓は、昨日(11日)の明け方までに5回止まった。そして11時5分、呼吸不全のためディジレ大学教育研究病院で亡くなった。

■「幼なじみだった・・・」
ディヤルバクル医師会のアデム・アヴジュクラン会長は、「幼なじみ」の最期を次のように語った。
「患部は広がっていた。胃がんは肺にまで及んでいた。最悪の状況だった。同僚の医師らは多大な努力を払って15ヶ月の延命に成功した。全ての皆さん、読者の皆さんにお悔やみ申し上げる。本当に胸の詰まる想いだ。私たちは幼なじみで、一緒に育った。ウズンは死を前にした日々のなかで、激化する暴力の停止を求めていた。『もう少し回復して、ベッドから起きられるようになったら、皆に呼びかけてこの暴力を直ちにやめるように求める』と話していた」

ウズンの亡骸が霊安室に運ばれる一方で、オスマン・バイデミル広域市長、民主市民党(DTP)の会派副幹事長でディヤルバクル選出の国会議員セラハッティン・デミルタシュ氏、民主市民党(DTP)ディヤルバクル選出議員ギュルテン・クシャナク氏、医師会のアデム・アヴジュクラン会長、弁護士会のセズギン・タンルクル会長、作家、詩人、ファンらが病院に次々と駆けつけた。バイデミル広域市長は、霊安室の前で「クルド人は本当に貴重な人物を失った。私たちの痛みは深い」と話した。作家のシェフムス・ディケン氏も、ウズンと30年来の友人であったと明かし、「彼を愛するすべての人にお悔やみ申し上げる。ウズンが特に望んだのは平和だった。最期の瞬間まで、平和を語らないことはなかった」と話した。

■葬儀は明日
民主市民党(DTP)の会派副幹事長のデミルタシュ議員も、クルド人にとってつらい時間、つらい日々であると強調した。「文学界の重鎮のひとり、クルド人にとって貴重な文化人、自らの作品と人生を通して我々全員の模範となり、啓発に人生を捧げた尊い作家を我々は失った。余人をもっては代えがたい人がいる。メフメド・ウズンもそういった人たちの筆頭にくる人だった」

ウズンは既婚で、2人の子供の父親だった。お悔やみは、オフィス地区にある広域市役所の迎賓館で受け付けられることが明らかにされた。亡骸はバイラム(祝日)の2日目である明日、マルディンカプ墓地に埋葬される。葬儀には各地からファンが集まると見込まれている。
〔後略〕

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( 翻訳者:倉本さをり )
( 記事ID:12132 )