メフメド・ウズンの葬儀で、作家ヤシャル・ケマル「この戦いはきっと終わる」
2007年10月14日付 Radikal 紙

「スウェーデンで医者らは一週間、もしくは10日の命しか残っていないと言っていた。『ディヤルバクルにたどり着ける見込みは30%』とも言っていた。しかし、私はディヤルバクルにやってきた。もしこられなかったのならこの仕事は終わっていた、実のところ。ディヤルバクルだけでない、全クルド地域が沸き立った。何百万の人が祈りをささげ、メヴリトが詠唱された。バスで一団となって病院へやってきた。私は見られなかったが入院していた病院のまわりに何千人もの人が絶えず押し寄せていた。病院でとてもいい治療を受けた。短期間で落ち着きを取り戻した。ディヤルバクルで平安を見つけた。」

メフメド・ウズンは、本紙ラディカルでネシェ・デュゼルと行ったインタビューから3ヵ月後の昨日(13日)、メフメドを応援しようと集まった何千人ものディヤルバクルの民に最後の旅路を見送られた。クルド語の代弁者である作家は、「もうこの地での暴力をやめよう」と述べる一方、もうひとつ遺言があった。彼の葬儀でヤシャル・ケマル、アフメト・チュルク、シェラッフェティン・エルチの3人がそれぞれスピーチすることだった。メフメド・ウズンの遺言にしたがい昨日の葬儀に出席したヤシャル・ケマルは、「近々この闘いは平和裡に終わる、メフメドは墓で安らかに眠れるだろう」と述べた。アフメト・チュルクは、葬儀で3名が語るようウズンが遺言し伝えたと語り、「クルドの結束」を望んだ。シェレッフェティン・エルチも著名な作家がノーベル賞を受けるに値したと述べた。

長年生活してきたスウェーデンで胃がんを患った54歳のメフメド・ウズンは、昨年医師に「手の施しようがない」との言葉を受け、トルコに戻っていた。ディヤルバクルで受けた15ヶ月もの治療のあと木曜日(11日)に息を引き取り、彼の遺体は昨日(13日)正午に病院を出てウル・モスクに運ばれた。ここでメフメド・ウズンの棺に抱きついた妻ゾーザンと子供の12歳のアランと16歳のゼルヤは涙にむせんだ。葬儀には多くの政治家、芸術家、文学者も含め、およそ2万人が参列した。

ウル・モスクで葬儀が行われた後、すぐにジャーミーの前に設置された演壇で、ヤシャル・ケマル、アフメト・チュルク、シェラフェッティン・エルチは群集に話しかけ、ウズンの遺言を実行した。ヤシャル・ケマルは行ったスピーチで、ひとりの文学者の葬儀にこれほどの人が集まったのを初めて目にしたと明らかにし、「あなたがたみなに感謝しています。メフメドは大切なひとだった。偉大な人物だった。メフメドのために著作が記され、叙事詩、詩が綴られるであろう」と述べた。

■ 「偉大な賞は、この群集である」

民主市民党のアフメト・チュルク党首も、メフメド・ウズンが生み出した作品を忘れないであろうと発言し、「メフメド・ウズンはノーベル賞を受けるに値した。だが、重要なことは市民が与えた賞であった」と語った。葬儀でこれほど大きな群集が集まったことは彼にとり最高の栄誉であると強調したチュルク党首は、次のように続けた。

「メフメドは若くして亡くなった。余計に長くいきることは人々に何も加えない。クルド語のことわざがある、『雄牛は死してただ皮を残す、若者は死して名を残す』。人間は、人に送った価値によって量られるのだ。メフメドは若くして亡くなったが、市民の声となった。文学者であるメフメド・ウズンは同時に政治家、外交官のように生きた。親愛なる友人メフメドは3名のスピーチを求めた。これはとても重要なことだった。思想が異なっていてもクルド人が一堂に介することを、結束、連帯することを望んだ。彼が望んだのは私たちのスピーチではない、結束と対話だ。このメッセージをわれわれの脳裏に刻もう。」

■ エルチ:ノーベル賞を受けるに値した

参加民主党(KADEP)のシェレッフェティン・エルチ党首もメフメド・ウズンが、ノーベル平和賞を受けるに値したと述べ、生前受賞できなかったこの賞が死後授けられるよう望んだ。

葬儀の祈りのあとウズンの遺体は人々に運ばれ、マルディンカプ墓地に埋葬された。遺体を運んでいる際に長い列が出来上がった。列の先頭にクルド語で「私たちはあなたを忘れない」と書かれた幕があった。葬儀に参列した人はクルド語で「殉職者は死せず」とのスローガンを投げかけた。

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( 翻訳者:栗林尚美 )
( 記事ID:12159 )