アメリカ大使館占拠事件28周年記念コラム3:「モルダード月28日のクーデターからアーバーン月の人質事件まで」(エブラーヒーム・ヤズディー)
2007年11月04日付 E'temad-e Melli 紙
エブラーヒーム・ヤズディー
1358年アーバーン月〔1979年11月〕に「イマームの路線〔を支持する学生〕」として知られる大学生らによって起こされた米大使館員人質事件と、1332年モルダード月28日〔1953年8月19日〕に起きた米英による軍事クーデター〔※〕の間に、何らかのつながりは存在するのだろうか。もし存在するのであれば、それはどのようなつながり、あるいは類似性なのだろうか。
〔※訳注:イラン石油産業の国有化を宣言したモサッデグ内閣を転覆した米CIAによるクーデターを指す〕
1.1332年モルダード月28日のクーデターは、第二次世界大戦後アメリカの政治機関が行ったこの種のオペレーションとしては、最初のものであった。このクーデターは国連の加盟国である米英両国政府が、別の国連加盟国の内政に直接的に干渉した行為であり、国連憲章に明白に違反するものであった。
2.1332年モルダード月28日のクーデターはモサッデグ博士が首班を務める政府を転覆させ、代わって米英の政策の実行役を務める従順で追随的な政府を権力の座に就かせることを目的として行われた。クーデターの主な目的は、次の二つからなる。すなわち、(1)西洋の石油会社が再びイランの石油資源にアクセスできるようにすること、(2)イランをバグダード軍事条約機構(後のCENTO〔中央条約機構〕として知られるもの)に加入させること、である。1332年モルダード月28日のクーデターは、自らの戦略的目的を達成したといえる。
3.1332年モルダード月28日のクーデターは、イラン国民運動にとって歴史的な敗北であったと言える。その結果、イランの民主化プロセスはその最初の段階で頓挫してしまった。〔石油国有化運動という〕国民運動によって、国民の利益に深く関与した政府が初めて〔イランに〕もたらされた。政府と国民の間にあった溝はなくなり(あるいは顕著に減少し)、人民は政府に対して帰属意識と愛着を見出すことができた。
イランとモサッデグ博士という二つの名前は、あらゆる場所で敬意をもって言及され、イラン人は自らに誇りを感じた。イラン国民は非暴力的かつ非強制的に、石油産業の国有化において偉大なる勝利を収め、イランに対するイギリスの搾取を断ち切った。国民としてのプライドが、社会のあらゆる階層に生まれたのである。
1332年モルダード月28日のクーデターがもたらしたもっとも重要な結果とは、このイラン人の国民的なプライドを深刻かつ深く傷つけたことである。国民運動を担った一部の人々が〔クーデターの後〕自殺を遂げたこと——ズィーラクザーデ博士やシャリーフォッディーン博士の例が有名だ——は、この精神的な傷がいかに深いものであったかをよく示している。
1332年モルダード月28日のクーデターの後、モサッデグ博士とその協力者たちは裁判にかけられ、政治活動家らは弾圧され、〔反政府活動家らの〕大規模な摘発が行われ、たびたび暗殺事件も起きた。これらの事件によって、イラン社会の集合的精神にクーデターがもたらした傷は、さらに深いものになっていった。
傷つけられた国民的プライドは、その社会的・政治的反響・結果として、広範かつ永続的な憎しみの感情を二つの次元でイラン人にもたらした。すなわち、この憎しみの感情は、クーデターに関与した国内勢力、つまりシャーとその下で25年間にわたり政権を担ったイラン政府に向けられた一方、他方でこの間イランで傍若無人な振る舞いをしてきた米英両国政府にも向けられたのである。
その一方で、1332年モルダード月28日のクーデター後の25年間、イランの統治体制、すなわちシャーと彼が任命した政府、そして米英両国政府は、イラン人民との和解に向けた真剣かつ建設的な努力を何らせず、傷を修復しようとすることもなければ、国民が満足するようなサービスを提供することもなかった。シャー体制が策定した経済的・社会的・政治的・文化的プログラムの失敗も、事態をさらに悪化させた。
イラン・イスラーム革命は、このような状況が積もり積もって爆発した結果である。革命の勝利と国王による圧政の崩壊の後、傷つけられた国民としてのプライドは、米英両国に対して顕在化した——アメリカに対してより激しく、イギリスに対してはきわめて限られた姿で。そして最終的に、シャーのアメリカ入国が米大使館の占拠と人質の拘束へと帰結したのである。
もしこのような歴史的背景がなければ、もしクーデターの勝利と国民運動の敗北によって生じた国民的プライドに対する深い傷が存在しなかったならば、そしてもしシャー体制の指導者たちが国民との和解の道を選んだならば、たとえ革命が起きたとしても、その後の人質拘束事件は起こらなかったであろうし、伝統的な左翼グループによるプロパガンダがあったとしても、同事件が国民各層やイスラーム共和国を率いる新たな指導層の支持を得ることもなかったであろう。
4.1358年〔1979年〕に起きた在イラン米大使館占拠事件・人質拘束事件は1332年〔1953年〕のクーデターと同じく、国際的な条約に対するイランによる明白な違反行為であった。イランは国連の加盟国として、この条約を締結しており、それを遵守する義務があった。この条約により、外交官と外国公館の安全確保は、受け入れ国の義務となっているのである。
〔革命後誕生した〕暫定政府は、この条約に対する遵守の姿勢を示す努力をした。イランの意志決定権者たち、すなわち最高指導者と革命評議会は、シャーのアメリカ入国に抗議して、政府に対してアメリカと断交するよう、すなわち同大使館を閉鎖し、大使館員らを全員国外退去処分にするよう求めることができたし、そうする権利があった。しかし、彼らはそうしなかった。彼らは大使館の占拠と人質の拘束を認めることはできなかったはずだし、そうすべきでもなかった。
一方で大使館の占拠と人質の拘束が続けられ、アメリカの国旗が燃やされ、他方で世界でもっとも強大な軍事力と経済力を誇る国が自国民の解放に失敗したこと〔※人質の救出に向かった米軍ヘリがイラン領内の沙漠で墜落したことを指す〕は、アメリカ人の集合的なプライドに深く深刻な傷を生んだ。それは、ベトナム戦争での米軍の敗北の結果アメリカ人の誇りに生じた傷を、さらに深くするものであった。
5.しかし、人質拘束事件を〔1953年の〕クーデターと比較するならば、それはクーデターとは反対に自らの目的を達したとは言い難い。人質の拘束は心理的、社会・政治的な動機、あるいは背景を有するものであり、シャーのアメリカ入国をきっかけとしたこの事件にとって、その直接的な目的はシャーの引き渡しと、〔彼がアメリカに不正に蓄財したとされる〕資産のイランへの返還であったが、もしそうであるとするならば、この事件はイランにとって目に見えるような好ましい成果を挙げたとは言えないからだ。むしろそれは、我が国にとってきわめて重い代償を伴った。
国民運動の挫折と1332年モルダード月28日のクーデターに対するイラン側の反応は、理解可能なものだ。しかし、アメリカ人の国民的プライドや世界におけるアメリカの威信に傷をつけるために自らを傷つけるような行為は、理性的・合理的なものとは言えない。
もし人質拘束事件が起きなかったとしたら、あるいはもし人質が2〜3日後にも釈放され、米大使館占拠事件が終わりを迎えたならば、イラクによるイランへの攻撃といった悪しき結果にイランが巻き込まれるようなことはなかったであろう。この事件は、今も重い影として、イラン・米関係の上にのしかかっており、アメリカ政府によるイランに対する敵意ある政策の一部は、その影響を受けているのである。
6.イランで起きた人質拘束事件は、その他さまざまな影響を及ぼした。これを歴史的観点から振り返ることは、若い新しい世代にとってきわめて教訓的であろう。
6-1.なぜ米大使館は、もしシャーに対してアメリカへの入国許可を与えれば、在イラン米大使館は再び襲撃され、大使館員が人質に取られる可能性があるとの報告を、テヘランからワシントンに向けて出したにもかかわらず、シャーにアメリカ入国のビザを発給したのであろうか。
米国内のいかなる機関・勢力が、人質事件から利益を得たのであろうか。
6-2.「イマームの路線〔を支持する〕学生」らが語ったところによると、当初彼らは米大使館を2〜3日間だけ占拠する予定だったという。だとするならば、いかなる機関・組織、あるいは個人が、米大使館の明け渡しと人質の解放を阻み、彼らを444日もの間拘束し続けたのであろうか。
人質の拘束を続けたことが、カーターが米大統領に再選されなかった重要な要因の一つであったと言えるのではないか。とするなるならば、アメリカ国内の、あるいは中東のいかなる勢力が、カーターの再選に反対したのであろうか。そしてこのことと中東和平との間には、いかなる関連があるのであろうか。
6-3.ベトナム戦争における米軍の積極的な役割とプレゼンスは、アメリカにおける反戦運動のきっかけとなり、対抗文化という社会運動の出現と、特定の機関・グループに対抗した政治・社会的、文化的な啓発運動へと最終的に展開していった。
この運動はアメリカにとって、国民を自国の政府に対峙させた初めてものであった。もしこの運動が継続し強化されたならば、アメリカ政府の国内における行動だけでなく、海外、特に第三世界における行動にも、重要な影響を与え得たであろう。イランで起きた人質拘束事件は、初期段階にあったこの運動を壊滅させ、右翼による過激な潮流の出現・強化に貢献してしまった。そしてこのような潮流の中から、レーガンが〔米大統領に〕選出されたのである。
ノーアム・チョムスキー、アフマド・イクバール、リチャード・フォークが1359年〔1980年〕、人質拘束事件が起きた後に、イランを訪問し革命評議会の有力者と面会をしたことがある。彼らはアメリカで起きつつあった新しい運動に対して人質事件が及ぼす悪影響について、そしてアメリカにおけるこの運動の維持と発展が第三世界の諸国民にとってどれほどの利益となるのかについて、革命評議会の有力者たちに注意を喚起していた。
6-4.人質拘束事件とその長期化は、表面上きわめて左翼的・反帝国主義的なスローガンに蔽われていたが、結局イスラーム共和国体制における右翼的な潮流を強めるために、過激な左翼勢力が動員されただけだった。「お前たち用心するが肝要であるぞ、これ、お前たち、見る目があるならば」〔クルアーン第59章第2節(井筒俊彦訳『コーラン』下、岩波文庫、p.184.)〕。
訳注:エブラーヒーム・ヤズディーは革命後誕生したバーザルガーン暫定内閣で外務大臣を務めた人物。ヤズディー外相らがブレジンスキー米国家安全保障補佐官とアルジェリアで極秘会談をもったことも、バーザルガーン内閣の穏健な対米姿勢を批判していた「イマームの路線を支持する学生」らがアメリカによる再度のクーデターを推測した一つの要因となった。彼らはその後米大使館占拠事件を起こし、バーザルガーン暫定内閣はそれを受けて総辞職している。ヤズディーはその後バーザルガーンらとともに、イスラーム共和国が国是とする「ヴェラーヤテ・ファギーフ」(法学者の監督)に批判的な政治集団「イラン自由運動」の一員として、言論活動を続けている。
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( 翻訳者:斎藤正道 )
( 記事ID:12412 )